2020.10.08
パンドラの箱~禁じられた一手~ Vol.1最初は言い訳を考えながら言葉を選んでいるようだったけれど、僕の真剣な眼差しに観念したのか、洗いざらい事の顛末を吐き出した。
3か月前、麻里は昔好きだった人と再会し、一緒になろうと猛アプローチを受けた。結婚している事実を伝えるも彼は引き下がらず、仕方なく離婚届を書くだけ書いてみたという。
「だけどね、この離婚届見たら急に実感が湧いてきちゃって。私、絶対離婚したくないって思ったの!!だからもう彼とは会わないって決めたの!!」
力強くそう言い切った麻里の目は赤く、必死に無実を訴えかけてくる。
「…そうか」
けれども、どんなに絞りだしても、それ以上の言葉がでてくることはなかった。
彼女の言葉をそのまま信じれば、本気で離婚しようとしたわけでもない。ただ、半分だけ記入された離婚届を、ひとり眺めていただけ。
事実だけ切り取れば、大した問題ではないのかもしれない。けれど、僕はひどく傷ついた。
―それから、そう時間はかからなかった。
些細なことがきっかけとはよく聞くけれど、このことがきっかけで僕たちは離婚した。
「本当に、もうやり直せないのかな…」
最後まで麻里は僕にすがったけれど、結婚して1年。まだ恋愛の延長にあった僕たちにとって、気持ちが離れたということは十分な離婚の動機となった。
僕は30歳、麻里は28歳。まだまだ再スタートを切れるほどには若い。
僕だって、まだ麻里のことは好きだった。けれど、麻里は離婚届を手にいれ、自らの意志でそれを記入したのだ。その事実は、僕にとって大きすぎる。
そんな過去をなかったことにして結婚生活を続けられるほど、僕のプライドは低くなかった。
◆
あれから、3年。
離婚した当初は、きっとまたすぐ新しい恋ができるだろうと、どこか楽観視していた。
だけど結婚はおろか、いまだ恋人すらいない。失ってはじめて、麻里をどれだけ愛していたか気づかされるだけの日々が続く。
―戻れることなら、戻りたい。麻里とまた、2人で暮らしたい。
情けないとはわかっている。けれど、3年たったいまでも、それが僕の本音。
麻里はいま、いったいどこで誰といるのだろう。
あの夜、麻里が大切に抱えていたあの箱の中身さえ見なければ、僕らはいまも幸せに暮らしていたのだろうか。
けれど、悲しいかな。一度開けてしまったあの箱を、一度知ってしまったこの記憶を、なかったことにはもうできない。
麻里:「今でも思い出す。あのとき、離婚届を見られていなければ…」
あのとき、『離婚届は試しに書いただけ』と言ったけど、本当は離婚したいと思っていた。
彼のことは、高収入で高学歴、その上誠実で家柄も良いという条件で選んで、恋する気持ちで選んだわけじゃなかったから。
だって、恋心なんて一時の気の迷いみたいなものでしょう?
そんな浮ついたモノに振り回されないで、好条件な男を結婚相手に選ぶのが、賢い女の選択だって本気で思ってたの。
でもね…違ったの。
彼との生活を重ねていくごとに、自分のその選択の過ちに気づいていった。好きじゃない男と生活を共にすることは、ひどく辛い。
あのとき、彼が起きていることは知っていた。彼にもしかしたらバレるかもとは思ったし、むしろ気づいて欲しいってどこかで願っていたのかも。
離婚するきっかけを自分でつくったみたいなものだったのかも。あそこまでトントン拍子で行くとは思わなかったけどね。
え、あのあと、どうしたかって?
私は今、北千住の古いマンションに、あの時アプローチしてくれた彼と一緒に暮らしている。
起業したばかりの彼の収入だけでは、贅沢どころか生活そのものが成り立たない。
私も働き始めて、あの頃とは180度違う生活をしているけれど、そう悪くはない、好きな男と生活をするって。
あのアルミ缶の箱の中には何が入ってるかって?
…来年までにプロポーズされなかったら渡そうと思っている、“婚姻届”が入っているわ。
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