ホテルの3階、宿泊客しか利用できないカフェに向かった。そこに馴染みの顔を見つけて声をかける。
「François!(フランソワ!)」
「Madame, cela fait un moment que nous ne vous avions pas revu. En déplacement professionnel ? (マダム、お久しぶりです。今回はお仕事ですか?)」
私のスーツを見て、判断したのだろう。このホテルに何十年も勤め、今はレストランとカフェの責任者でもあるフランソワは、私が幼い頃からの顔なじみだ。父がこのホテルを気に入っていて、家族旅行で何度も訪れていることは部下の富田にも言っていない。
「Oui, effectivement. Je ne séjourne pas à l'hôtel cette fois ci mais pourriez-vous me préparer une table ? J'ai un rdv par la suite.(ええ、そうなの。宿泊していないのだけれど、席を用意してもらうことはできるかしら?この後このホテルで打ち合わせなんだけど、少し時間が空いてしまって))」
「Bien sûr. Par ici, s'il vous plaît (もちろんです。こちらへどうぞ)」
うやうやしく対応してくれるフランソワにお礼を言い、その後についていく。出張の経費では、到底このホテルに泊まることなどできない。社長である父は私を普通の社員と同じように、もしくはそれ以上に厳しく接したし、私もそれを望んでいる。
そもそも私が社長の娘だと公表されたのも、つい最近のことで、それまで一緒に働いていた同僚たちは、私の素性を知って本気で驚いていたのだから。
フランソワが用意してくれたのは、テラス席だった。広くはないけれど、全ての席から地中海を望むことができる。日は眩しすぎず、風が心地よい。ロゼシャンパンを飲みたい気持ちを抑えて、カプチーノを頼んだ。
腕時計の針は14時過ぎを指している。ということは日本は21時で、娘の愛香(あいか)はお風呂に入ったか…早ければもう、眠ったかもしれないけれど。
声が聞けたら聞きたいな、と携帯を取り出したとき、LINEの着信が。それは夫の大輝からで、開くと動画だった。
「ほら、愛香、ママにお休みなさい、って言って」
「ママーおやすみなさぁい」
「お仕事頑張ってね、は?」
「おしごとがんばってねーーー。ママだいすきだよーー」
小さな手で眠そうに目をこすっているのに、一生懸命カメラに笑顔を向けてくれるその仕草が愛おしくて、ホッと気が緩む。まるで私の思いが見えているかのように、いつも先回りして優しい連絡をくれる夫に感謝しながら、LINEの返信をしようとしたときだった。
「日本の方ですか?」
声の主は、隣の席に座っていた男性だった。私が戸惑っていると、彼は、私が手に持っていた携帯を指差しながら言った。
「今、日本語が聞こえた気がして」
「あ…すみません、音、ご迷惑でしたでしょうか?」
動画の愛香の声は、小さくはなかったし、この静かなカフェでは無作法だったかもしれない。それに私と彼の席の間隔はかなり近い。配慮が足りなかった、と私が謝ると、彼は慌てた様子で続けた。
「いや、そういうつもりじゃなくて。モナコに滞在してもう1ヶ月近くになるので、日本語が聞こえてきたことが、何か嬉しくなったんです。ここの所、アジア系の方をお見かけしても、中国語ばかりが聞こえていましたから」
男性が、屈託ない笑顔を私に向けた時、カプチーノが運ばれてきて会話が途切れた。
彼は遠慮したように私から視線をそらすと、シャンパングラスを手にとり、海の方を眺め始めたけれど、私は彼の横顔から目が離せなかった。
私は、初対面の人と会話を楽しめるタイプではないし、いつもなら話しかけられたからといって、その相手に特に興味を引かれることもない。
けれど、彼の骨格が…あまりにも美しく整っていたから。
―日本人なのかしら。
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とても面白かったです!