“今夜の相手”という俗な言葉を使われたことと、バカにされたような軽い口調に、自分の顔にカァッと血がのぼるのがわかった。
「そんな言葉遣いは、失礼ではありませんか?」
私が少しの怒りをこめてそういうと、男性は笑いながら立ち上がった。185cmは超えているだろう長身に見下ろされたかと思うと、彼はぐっと顔を近づけてきた。
息がかかるほど近くにある、美しい顔に怯んでしまう。
「失礼なのは、人の顔をジロジロと舐め回すように見たあなたの方でしょう。僕はね…女性にアクセサリーみたいに扱われる自分の顔がとても嫌いなんですよ」
―燃えるような、瞳。
その瞳に圧倒されて言葉を失い固まっている間に、彼は立ち去っていった。
しばらく呆然としていた私を、正気に戻したのはフランソワの声だった。
「Cette bouteille de Champagne vous est offerte par le Monsieur qui siégeait à vos côtés.(お隣に座られていた男性が、このシャンパーニュをマダムに、と)」
フランソワの手には、高級シャンパーニュの代名詞ともいわれる、サロンのボトル。
「お隣の男性はボトルを開けられたのですが、1杯しか召し上がりませんでした。
サロンの2002年はとてもよいヴィンテージなので、もしよろしければマダムに飲んでいただきたいそうです。残り物のようで申し訳ないけれど、先ほどのお詫びもこめて、とおっしゃってました」
どうなさいますか?と聞くフランソワの声が、とてもぼんやり聞こえた。彼の席に残されたシャンパングラスには、黄金色の液体がまだ半分くらい残っていた。
お詫びしなければならないのはこちらの方ではないだろうか。彼が歩いて去った方向を振り返り、そんなことを思った。
◆
ー神崎智。兼六堂の一人娘、ね。
ホテルの部屋に戻った男は、すぐにタブレットで女のことを検索した。確か最近、社長の娘だということが公表されたばかりのはずだった。
―思わぬ収穫だったな。
そう思いながら、男は日本へ電話をかけた。2コールで出た相手のハイテンションな声と、その声の向こうから漏れてくるEDMの激しさにうんざりしながら、用件を告げる。
「兼六堂の一人娘って、お前のリストに載ってたよな?データ、あるだけすぐに送って」
相手の承諾を聞かぬまま、電話を切ってベッドに倒れこむ。10分もしないうちに携帯が震え、暗号化されたメールが届いた。
「…資産、200億、ね」
―最後の獲物は…この200億の女に決めた。
男はメールを携帯から消去すると、豪華な天井を見上げ、ぼんやりと最後の獲物の顔を…あの地味な女の、別れ際の固まった顔を思い出した。
出会いとしては、十分過ぎるほど上出来だった。あの手の女は、罪悪感を抱かせるに限る。記念すべき最初の罠がうまく仕掛けられたことへの高揚感がたまらず、つい口元が緩んだ。
―とろけるくらい幸せにしてあげるよ。…あなたの全てを奪う代わりにね。
▶NEXT:6月30日 日曜更新予定
二度目の再会は、思いもよらぬ場所で。罠だとも知らず、女の心は動きだす。
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この記事へのコメント
とても面白かったです!