「あの男、なんて言い方はやめなさい」
私がそう諌めても、日本語がわかる人がここに存在しないと思っているからか、富田の言葉は止まらなかった。
「だって失礼すぎません?約束の時間を破ったのは自分達なのに。私は、神崎さんみたいに中国語はわかりませんけど、私たちが軽く見られてることくらい分かります。女で、若いからですか?
日本の大手化粧品メーカーから、会社を代表してきてるのに。私たちをバカにするってことは、うちのブランドをバカにされてるようなものじゃないですか!?あーもう、ムカつきます。契約金もとんでもない金額要求してきてるくせに…」
言葉は荒くて幼い。でも富田の言い分にはいつも会社への愛がこもっている。私はそんな彼女が嫌いではないけれど、落ち着きなさい、と諌めてから続けた。
「富田さん、私たちがここに来た目的は何?」
問いを返されると思ってはいなかったのか、怒りにまかせて興奮していた富田が、一瞬キョトンと固まった後、おずおずと口を開いた。
「あの彼女を…世界的女優の彼女を私たちのブランドの広告に起用するために、交渉…というか口説き落とすことです」
「そう。だからその交渉をうまく行かせるために必要なことだけを考えればいいの。私たちがバカにされてるとか、個のプライドとか気持ちはどうでもいいし、気にもならない。相手に感情を振り回された時点でその駆け引きは負けに転がるわ。
それに…私が社長の娘だっていうカードも、最も効果的なタイミングで出さなきゃ意味がないの。覚えておいて」
「……はい…申し訳ありませんでした」
小さな声で謝った富田が、うなだれたのを見て、ハッとした。また淡々と詰めてしまった。夫にもいつも注意されることなのに。
「智の意見が正論なのは、みんなが分かってる。でも正しいことでも、伝え方を考えなきゃ。部下を不必要に追い詰める必要はないだろ?智はコミュニケーションが下手…というか、言葉足らず、なんだよなぁ。本当は優しいのにもったいないよ」
私に意見をしてくれる唯一の人。同僚でもある優しい夫・大輝(だいき)の、そんな言葉を思い出している時、甲高い声の中国語が聞こえてきた。
「私、緑のドレスは着たくないって伝えたわよね?」
ファム・ファタール。魔性の女優が、声を荒げている。
どうやら、カメラマンの要望で用意したドレスのことが、女優サイドにはうまく伝わっていなかったようだ。
たしか、カメラマンはイギリス人で、ファッション界の巨匠。彼の英語を聞いているとカメラマンサイドは、女優が納得済みだと聞いていたらしい。ハイブランドの担当者だろうか。この場の責任者らしき人物が間に入ったが、双方の言い分はぶつかったままで、どちらも譲りそうにない。
―燃えるような、瞳。
その言葉と怒りの内容はともかく、髪を振り乱し、感情をむき出しにできる彼女を私は羨ましいと思った。美しさが増しているようにも見える。
私は誰かに、感情をむきだしにしたことがないから。そもそも理性を超えた激しい感情など、一度も持ったことがないのだ。
さっき私たちの対応をした男性マネージャーが、女優にガウンを着せ、1時間休憩を入れませんか、と言うのが聞こえた。女優はマネージャーを信頼しているようで、彼になだめられると言葉を抑え、抱きかかえられるようにして部屋を出ていった。
「…1時間休憩するみたい。コーヒーでも飲んで待ってましょうか」
私は富田にそう言ったけれど、富田は首を横にふった。
「私はここで見張ってます。1時間って言ったところで、急に再開したり、いなくなられたりしたら困りますし。神崎さんは、カフェに行ってらしてください。何かあったらすぐに知らせますから」
携帯を指差しながら、そう言った彼女の顔はこわばったままで、さっきの私の言葉がダメージを与えていることは明らかだった。
私は無理に誘うこともできず、言いすぎたことを謝ることもできず、苦い思いを抱えたまま、じゃあお願いします、と言い残して部屋を出た。
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とても面白かったです!