「ねえ、どういうこと?私やお姉ちゃんに一言の相談もなしに、家を売っちゃうなんて酷いじゃない!」
声を荒げる私を、母はじろりと見つめた。
「だって、七海も沙耶も反対するに決まってるもの。面倒だからひとりで進めたわよ」
母は、医院付きのこの家を土地ごと売る手続きを水面下で進めていたのだ。
「…それで、ここを売ってしまったら、ママはどこで暮らすの?」
私の声は震えていたが、母はにっこり笑って平然と言った。
「東京に行くの!南麻布の低層マンション買ったのよ!なんかね、超有名人も住んでるらしいのよぉ。ロビーなんてね、高級ホテルみたいにすごいんだから!あ、資料見る?」
浮かれた口調の母が、辞書のように分厚いマンションのパンフレットをガサガサと広げている様子を、私はただ黙って見ていた。
そんな私の冷たい視線に気がついた母が、呆れた様子でため息をつく。
「私はね、こんな小さな町、ずっと昔からとっくに出たかったのよ。いい?あなたも沙耶もね、いい加減に過去は忘れなさい。もう、パパはいないんだからね」
「ママ…」
かつて父を献身的に支えた良き妻の慎ましさは、もはや微塵も感じない。母は、別人のようになってしまったのだ。もう何を言っても無駄なんだと悟った。
◆
その夜、すでに他人の物のようにすら感じる自分の部屋のベッドで、奇妙な夢を見た。
夢の中では、小学生の姿の私が同じこのベッドで眠っている。ガタガタという物音と、勉強机に灯された小さな蛍光灯の眩しさで、小学生の私は目を覚ます。
—ママ…?こんな夜中に、私の机で何をやってるの…?
それは、私の勉強机の引き出しを必死で漁る母の後ろ姿だ。そこで夢は終わって、本当に目が覚めた。
「じゃあ、ママ。また引越し前のタイミングで手伝いにくるね…」
「七海。待って」
力なく別れを告げた私を、母が呼び止める。
「あなたの恵比寿のマンション。あそこも、売りに出していいわよね?もうパパはいないんだから、家くらい自分で借りなさい。あなた、結構お給料もらってるのね。通帳、見たわよ」
背筋が凍りつくのを感じた。母は、いつのまにか私のカバンをあさって、私の銀行通帳を見ていたのだ。
その瞬間にハッと思い出した。
昨夜見た夢、あれは夢の中の話なんかじゃない。子供のときに起こった現実だ。母はいつだって、私の引き出しを漁っていた。
テストで90点以下をとったら母からきつく怒られるのに、75点だった理科のテスト。漫画を読むことを禁止された代わりに、宿題をするふりをしてこっそり自分で描いていた少女漫画。
引き出しの奥にひっそりと隠されていたたくさんの秘密を、母はことごとく見つけ出して容赦なくさらけ出し、私を叱咤した。葬り去っていた小さな頃の記憶が、するすると蘇る。
そうだ。母は、父の死をきっかけに豹変したわけじゃない。ずっと前から、おかしかった。
でもこんなのは、今思えば序の口に過ぎなかった。これを皮切りに、母は本性をあらわしたのだから。
◆
あのね、ママ。小学生のときから、いつも周りの人に言われてきたの。
—七海ちゃんのお家はお金持ちでいいなあ
—何不自由なく育てられてきて、幸せだね
でも、違う。私はずっと、心の底からは決して幸せじゃなかった。
私が欲しかったのは、地位や名誉じゃない。たくさんのお金や高級マンションでもない。
ただ私は、たった一度でいいからママに優しく抱きしめて欲しかったんだ…
そう、このときはまだ、これからやってくる私の幸せを根こそぎ奪おうとするのが実の母だなんて、思ってもいなかったのだった。
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「良き妻」という仮面を脱ぎ捨てた母・真由美の暴走が始まる。
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この記事へのコメント
特に東カレっぽくない内容、テーマでいまいち。
もう少し東カレらしい小説増やして欲しいです。