私は、長野県松本市の近くにある市内の、開業医の家に生まれ育った。東京では誰も知らない、小さな町だ。
父は「桐谷医院」の二代目。桐谷家は、祖父の代から多くの土地を所有していたし、近隣の小学校や図書館などの施設へ多額の寄付や寄贈もしていた。少なくとも私の町で「桐谷医院」と「桐谷家」を知らない者はいないだろう。
そのせいか母はいつも人目を気にして、私が近所にふらりと出かけるときでさえ、ファッションやメイクを控えめにするよう口うるさく言ってきたことを覚えている。
私や、4歳年上の姉・沙耶は、小学生のときから「桐谷医院の娘」という別名で呼ばれ続け、小学校の教師たちは、校長ですら当然のように私や姉をあからさまに贔屓した。
そしてクラスメイトたちからはいつもうんざりするほど「七海ちゃんのお家は、お金がたくさんあっていいなあ」と言われ続けていたのだ。
大学入学を機に東京で一人暮らしを始めた際に、父は私と姉にそれぞれ、都内の立派なマンションを買い与えてくれた。
恵比寿の2LDKのマンションに、大学生が都心で何不自由ない生活を送れるだけの十分な仕送り。そのことを友人からは羨ましがられたけれど、大学に入ると、うちなんて比べ物にならないくらい桁違いのお金持ち家庭の子や有名人の子息がたくさんいた。
小さな町の小さな病院の家に育った私なんてたいしたことなく、“小金持ち”に過ぎない。
意外と思われそうだけれど、上には上がいるという事実が本当に嬉しかった。あの田舎町から遠く離れたこの場所で、もう誰の目も気にしなくていい生活は、私に心地よい解放感を与えてくれたのだ。
そして大学を卒業してから、私は大手日系航空会社で総合職として働いている。
私や姉が東京生活を謳歌している一方、母は父の傍で、相変わらず窮屈な田舎で人目に晒されながら毎日を過ごしていた。私や姉がどこの大学に進学したとかそういった情報はすぐに町中で出回る。母はそのことにかなり敏感なようだった。
父はいわゆる“亭主関白”で、母が父に歯向かっているような場面は一度だって見たことがない。ただ献身的に父に仕え、完璧な妻の任務を全うしているように見えた。
食事は決められた時刻を1秒も狂うことなく、食卓に7品以上のおかずが並んだ状態でスタートする。広すぎるリビングにも長い廊下にも、塵ひとつ落ちているのを見たことはない。
お酒を飲んだ時を除いては口数が決して多くない父だけれど、子供への愛情には溢れていた。そして、私や姉の教育にはさほど口を挟まず、それに代わって母は、娘のしつけと教育を徹底的に行った。
そんな桐谷家において偉大なる存在であった父が、ある日突然、急性心筋梗塞により他界したのだ。私が30歳の誕生日を迎えた、翌日のことであった。
この記事へのコメント
特に東カレっぽくない内容、テーマでいまいち。
もう少し東カレらしい小説増やして欲しいです。