朝6時頃から、航太と圭一のために昼食のハンバーグと付け合わせのグリル野菜、夕食用にカレーやサラダを作る。
バタバタとシャワーを浴びて、前日から準備していたドレスに着替えた。
何年か前、別の披露宴に招待された際に買ったものだが、落ち着いた紺色がとても気に入っていた。袖口とスカートがレース素材になっていて華やかさもある。
不安だったサイドのファスナーもどうにか締まり、鏡で全身をチェックする。気合をいれてメイクをするのもずいぶん久しぶりだが、こうして見ると、我ながらなかなか悪くないような気がした。
翔子はちょっぴり上機嫌になって、リビングでぼんやりとスマホを見ている夫の圭一のところに駆け寄る。
「どう?似合ってる?久しぶりに着てみたんだけど…!」
圭一はチラリと翔子を一瞥し、「ああ、うん」と、なんのおもしろみもない生返事をした。
「…あまり飲みすぎるなよ。久しぶりなんだから」
「はーい。今日は航太のことよろしくね」
「ママ、いってらっしゃい!今日はパパがサッカー観に連れて行ってくれるって」
「それはよかったね。楽しんできて。パパの言うことちゃんと聞くのよ」
航太の頭や頬を撫でながら、美容院の予約時間が近づいていることに気づき、翔子は慌てて家を出た。
◆
披露宴会場は『アンダーズ東京』。虎ノ門付近は当時の職場にも近く、通いなれた愛着のある場所だ。
ところが、家を出るときまで翔子はあれほどウキウキしていたのに、会場に着くころにはすっかりと暗雲が立ち込めていた。
早めに到着してロビーのソファーに腰を下ろしたまま、全く立ち上がることができないのだ。
ー足が、痛い…。
ここに来るまでの道のりで靴擦れが最悪の事態に陥り、マメが破れ血だらけだ。10cmのヒールに耐えられず、つま先が疲労骨折するかと思うほど。
まだ結婚式が始まってもいないというのに、激痛でもう一歩も歩けない。
妊娠するまではたびたび履いていたルブタンのパンプスだ。酔っぱらってもピンヒールで走り回れるのが自慢だったのに。
あまりの痛みに冷汗が出る。
―嘘でしょう?どうして…。せっかくのお祝いなのに、こんなんじゃ楽しめない。でもまさかパンプスを脱ぐわけにも…。
1人でパニックになっていると、急に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「翔子!久しぶりー!」
「会いたかったー!」
目の前にいるのは、元同僚の西井玲奈と原田美優紀だ。
2人とも翔子と同世代。美優紀は昨年出産をし、もうすぐ1歳になる女の子のママだ。そして玲奈も、お腹がふっくらしている。
「わああ!玲奈、順調そうね。美優紀も久しぶり!お子さんは元気?」
「うん!今日は夫が見てくれてるの」
「そうなのね。それにしても、2人に会えて嬉しい!」
翔子は感動のあまりそう叫ぶものの、結局その場から立ち上がれない。足があまりにも痛すぎるのだ。
玲奈は隣に腰を下ろし、翔子の顔を覗き込んだ。
「翔子、ほんと変わらないね」
「え?そうかな。もう来年は35歳だよ。おばさんだよ。子供も小学生だし」
翔子がはしゃいでそう答えると、今度は美優紀が言った。
「翔子だけ時間が止まってるみたいよ。変わらな過ぎて」
さすがにここまで言われると、喜んで良いのかわからなくなってくる。
「変わらないって言っても、ハイヒールも履けなくなっちゃって、動けないの。ほら。このルブタン、憶えてる?いつも履いてたのに」
玲奈と美優紀は、翔子の足元にやや冷ややかな視線を落とした。
すると、玲奈は顔を上げてこう言ったのだ。
「ねえ。そのドレス、まだ着てたの…?」
恋するマザー
いつまで経っても、女は女でいたいー。
それは、何歳になっても、子どもができてママになっても、ほとんどの女性の中に眠る願望なのではないだろうか。
いつまでも若々しくいたいという願いや、おしゃれへの欲求、それに少しのときめき。自由やキャリアへの未練。
そんな想いを心の奥底に秘めながら、ママとなった女たちは、「母親はこうあるべき」という世間からの理想や抑圧と闘っているのだ。
専業主婦の川上翔子(34)は、幸せな毎日を送っていたはずだったが、ある日を境に彼女の人生が再び動き始めるー。
この記事へのコメント
母親が母親らしくあるのはひたすら自分を犠牲にすることでもあるんだと思った。だから「母親はこうあるべき」なんて偉そうに、軽々に言っていい言葉じゃないんだよね。