SPECIAL TALK Vol.25

~若い世代は過去にとらわれないでグローバルな視点を持つこと~

急成長するシンガポール。伸び伸びと過ごした幼少期

金丸:当時はまだ転勤で海外に行く人も少なかったでしょう。やはり日本人学校に通われたのですか?

柳川:はい。今でこそシンガポールの日本人学校にはクラスがたくさんあり、日本人も多くいますが、当時は1学年1クラスだけでしたね。シンガポールは独立して10年ほどという、まさに国が急成長していく時期でした。当時から、日本人学校には日本から教師が派遣され、カリキュラムも同じでしたので、文科省の教科書通りの授業を受けることができました。

金丸:ということは、外国にいるという意識はあまりなかったですか?

柳川:そうですね。イギリス軍の元兵舎が校舎になっていたりと、異国情緒はあるのですが、先生も生徒も日本人、言葉も日本語。シンガポール人と遊ぶことも少なく、本当に日本にいるような感覚で暮らしていました。

金丸:先生もほとんど日本人なんですね。

柳川:ただ当時は、海外に派遣される日本人教師は珍しかったので、変わっているというか、気概のある人が多かったですよ。教育委員会の目もなかったと思うので、好きなように授業ができた面もあると思います。裏山にはコブラが出ると言われていたのですが、そこに生徒を引き連れていったり(笑)。お受験という概念もほとんどなくて、本当に伸び伸びと過ごしていました。

金丸:シンガポールには、いつまでいらっしゃったんですか?

柳川:中学1年の夏までです。帰国後は1年足らずで世田谷、杉並を転々としましたね。

金丸:年に2、3回転校となると、友達を作ってもいずれ別れなくてはいけませんよね。つらくはありませんでしたか?

柳川:それがあまりなくて、そういう状況が普通だと思っていました。シンガポールでも、絶えず人が入れ替わっていましたし、逆にずっと同じ学校にいるのが、信じられないという感覚でしたね。

金丸:日本の中学校には、すぐに慣れましたか?

柳川:慣れるのは早かったですよ。自分は〝普通の日本人〞だと思っていましたから(笑)。でもやっぱり、ずっと日本で暮らしている日本人の中に入ると、ひとり浮いてしまって、周りから結構目をつけられていました。

金丸:帰国子女というだけで、色眼鏡で見られる時代ですよね。

柳川:そうですね。確かにいろいろありましたけど、それよりも単純に、気温の違いにうんざりしました。東京は寒いんですよ。冬なんて凍えるようでした。だから、父のブラジルへの転勤が決まったときは、「これで寒さから逃れられる!」と嬉しくなりました(笑)。

高校には行かず独学で勉強ブラジルで学んだこととは?

金丸:今度はブラジルですか。

柳川:日本の中学校で卒業証書をもらったあと、サンパウロに渡りました。

金丸:サンパウロでは高校に入学されたのですか?

柳川:いえ、高校には通っていません。

金丸:えっ! それはなぜ?

柳川:やはり言語の問題があり……。ブラジルはポルトガル語ですから、私のレベルだと、小学校1年生からやり直さなくてはいけないと言われまして。

金丸:本当ですか?

柳川:本当です。飛び級してもいいと言われたものの、さすがに小学生に交じって授業を受けるのは抵抗があって(笑)。日本人学校はなかったし、アメリカンスクールという選択肢もあるにはあったんですが、勉強のレベルが低かったので、独学で学ぶ道を選びました。

金丸:学生時代に海外に行くと、そういうことが起こりうるんですね。じゃあ、ブラジルでは、ずっと家で勉強していたんですよね。私だったら確実にできません(笑)。

柳川:私も1、2年目はブラブラしてしまいましたよ(笑)。一応、日本から高校3年分の教科書、参考書、問題集を全部持っていったのですが、なかなか手がつかず……。でも受験のタイミングが近づくにつれて、徐々に勉強に力を入れていきました。

金丸:ここで柳川教授の独学スタイルが生まれるのですね。

柳川:まだ序の口です。ブラジルには4年半位いたのですが、その後またシンガポールに戻りました。シンガポールでも独学の日々が待っていましたね。

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