別れても変わらない克哉の素直な物言いに、咲の心が弛んでいく。
― この感じだと、今夜は楽しく食事するだけ、でいいんだよね…?
良くも悪くも、旅立つ側というのは気持ちの整理がつきやすい。なぜなら、心が行く先を向いているからだ。
別れの後、しばらく気が滅入っていた咲も、留学準備が進むにつれて克哉のことを考える時間はゼロに近くなっていた。
一方の克哉は、別れを受け入れてからも度々、咲に連絡を入れている。
内容は多忙を気遣う言葉や、咲の留学先・北欧のちょっとしたニュース、共通の友人の近況などで、復縁を迫るような内容ではない。
それでも咲は、別れた恋人から変わらず連絡が来る状況に、少なからず困惑した。
恋人関係を解消したとはいえ情はあるし、6年来の先輩でもある。共通の友人だって、たくさんいる…。
克哉からの連絡を無下にできない咲は、「仲の良い後輩」として、あたりさわりのない返信をしていた。
食事もひと段落し、互いの近況も話し終えた頃、克哉が切り出す。
「咲はさ、来月北欧にいってしまうけど…。その後は?日本に帰ってくるの?」
「仕事が見つかれば、あちらに残りたいけど…まだわからない」
「そうか…。実は俺さ、会社の制度を調べたら、ヨーロッパ駐在の選択肢もあるみたいなんだ。それで、本格的に勉強を始めてみようかな?なんて思ってるんだ」
今まで国際志向のなかった克哉が口にした、意外な言葉。
咲は少し驚いたが、克哉がこちらの反応を伺っていることに気づき、サッパリと明るく返事をした。
「いいね!応援する」
それ以上、深くは聞かない。
まだ克哉が咲に未練があることを、彼の物言いから悟ったからだ。
― 克哉は、自分の未来を語っているんじゃない。ふたりの未来として、また一緒になる方法を探っている…。
咲は思う。
克哉のことが人として好きなのであれば、今夜を最後に、はっきりと距離を置くべきだ。
― 私は今、ひとりで歩きたい。克哉の未来まで、責任は持てない。
「克哉。私、お化粧室に行ってくるね」
席を立った咲はその足で会計を済ませ、素早く席に戻った。
「あれ?早かったね」
「うん。お化粧室じゃなくて、お会計済ませてきただけだから。今までたくさんお世話になったから…今日はご馳走させて」
「えっ。誘ったの俺だし…今日は咲の壮行会だろ」
「ありがとう。その気持ちがすごく嬉しかった。でも今日は私がご馳走したいの」
いつもの咲と違う様子に、克哉は寂しそうな表情を見せる。
しかしその表情は笑顔に変わり、諦めたように席を立ちながらこう言った。
「わかった。咲、ありがとう。行こうか」
店を出てエレベーターに乗ると、克哉は13階のボタンを押した。
「克哉、下じゃないの?」
「ちょっとだけ。最後に付き合って」
克哉に連れられてきたのは、最上階にある屋上庭園。
銀座で最も広い屋上庭園というだけあって、銀座の中空にぽっかりと浮かんだような、まさに天空を思わせる空間だった。
多様な樹種が生い茂り、ほんのりとライトアップされた回廊から銀座の街がのぞいているのがなんとも幻想的だ。
何を話そう…などと戸惑う間も無く、克哉が口を開く。
「咲、単刀直入に言う。俺は咲のこと諦めきれない。渡欧は応援するし、その間に俺も頑張る。もっといい男になるから…これからもパートナーでいてほしい」
あまりにもまっすぐな克哉の瞳。この強すぎる愛情を、咲は6年間注がれてきたのだ。
付き合う前も付き合ってからも変わらない。それどころか増していく熱量…。
― ああ…私がハッキリと離れていれば、克哉は別のことに情熱を注げたのかもしれない。私は克哉の時間を奪い、克哉を拘束していたんだ。
「ごめん。克哉とは、付き合えない。私…」
すべてを言い切る前に、咲は克哉に抱きしめられる。
咲は、無理にその腕を解くことはしなかった。お互いに、相手に涙を見せたくかったからだ。
「…わかった。咲、本当にありがとう。頑張ってな」
「うん。克哉も頑張ってね。ここでバイバイしよう」
銀座の薄明るい夜空を背にした克哉が、一度だけ振り返って笑顔を見せて──そして、館内へと消えていった。
藍色の空の中で輝く東京タワーに、咲はぼんやりと目の焦点を合わせる。
― 本当に、ひとりになっちゃった。
克哉に言った「渡欧に向けた簡単な身支度」なんて、本当はやることはひとつもなかった。
向こうでは新生活が始まる。この身ひとつ、あればいい。
今日からは、克哉からの何気ない連絡は、本当に来なくなるだろう。
今夜克哉と会う前は、克哉の前でどんなふうに振る舞えばいいか分からなかった。
克哉の気持ちには応えられない。だけど、克哉を傷つけたくない。でも、克哉との関係は続けられない…。
そんな堂々巡りを繰り返し、胸が痛んだ。
だけど…。
いざ本当に1人になった今、咲の気持ちは意外なほどに冷静だった。これからの未来を思って、前向きですらある。
― 私って嫌な女なのかな。でもいつまでも感傷に浸っていたら、新しい風は入ってこないよね。
ふと、夕方に悠が言った言葉を思い出す。
『毎日そばにいたいと思える人には、出会ったことあるけど…』
咲はまだ、克哉はもちろん、誰かのそばに毎日いたいと思ったことがない。
そんな咲が、「ずっと一緒にいたい」と願う克哉の気持ちに応えることは、どう考えてもできないのだった。
― そう、私はまだ出会ってないんだ。私だけの誰かに。そして、私だけの未来に。
咲の瞳には東京タワーがくっきりと浮かび、その背にはどこかへ旅立とうとする飛行機がピカピカと光っている。
これから先、どんな自分になるのだろう?
今の咲には分からないけれど、少なくとも次に日本に帰ってくる時には、銀座の街でも物おじしない、堂々とした女性になりたかった。
銀座の街を一望できる屋上で、咲は思い切り夜風を吸って深呼吸する。
克哉が去ってスペースの空いた心に、気持ちのいい風が入ってくるのを感じた。
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▶Next:4月23日 火曜更新予定
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この記事へのコメント
出てくる度にどこの国に留学するん?と気になって…
結局どこか不明なままかい。
なぜ過去形?