まさか話しかけられると思っていなかった紗耶は一瞬ドキッとしたが、ふたりの笑顔に包まれて自然に言葉を返すことができた。
「はい、同じお店にいました。ゴルフされるんですか?」
「そうね。歳も歳だから、身体の不調もあるけれど…ゴルフはまだ不思議とできちゃうのよね」
ゴルフ好き同士、会話が弾みそうな気がした。紗耶の方から簡単に自己紹介をすると、年配の女性は洋子、長身の女性は美緒と名乗る。
若く見えたがもう80歳過ぎだという洋子は、ゴルフを始めたのはなんと70歳を過ぎてからなのだと教えてくれた。
「どう、少し座って行ったら?」という洋子からの人懐っこい誘いに乗り、ベンチの隣の席に腰を下ろす。
初めは当たり障りのないゴルフ場の話などをしていたが、気がつけば饒舌な洋子の過去の話が始まり、紗耶はすっかり聞き入ってしまうのだった。
20歳で結婚してから専業主婦で、8歳年上の夫の事業が成功していたために、日本橋で何不自由のない暮らしをしていたこと。
ブランド品や宝石を身にまとい、銀座の高級レストランに通い、海外旅行を楽しむ生活を送っていたこと。
けれど、リーマンショックの直後に夫が他界してしまったこと。
夫の会社が多大な借金を抱えていたことが判明し、愛する夫と住まいと財産、全てを失ってしまったこと…。
「豪勢な生活に優越感を感じていたのは事実よ。でもそれは、社交界の嗜みだとも思っていたわね」
洋子の言葉を聞いて、紗耶は港区を社交場として豪勢な遊びをしている自分の姿を、心の中で重ねる。
「だけど、夫との死別でその必要もお金もなくなって…。50年近く家庭を支えることに力を注いでいたのに、何をしていいかわからなくなったの。生きている意味も見失ったわ」
「それでゴルフを…?」
「やあね。ゴルフってお金がかかるでしょ。そう簡単に始められないわよ」
洋子は笑い、神妙な顔をしていた紗耶もつられて笑顔になる。
辛い話をしているはずなのに明るいエネルギーを感じさせる洋子に、紗耶は惹かれていった。
「ひとりの時間を持て余して…つまらない毎日ながらも、自分に残された時間は有限だと意識していたの」
長年守り続けた日本橋の住宅。守る必要のなくなった今は、どこにでも行ける。
そう思い立った洋子は、いかにして後悔せずに人生を生き切るかを模索しながら東京中を散歩したのだと言う。
行ったことのない街をひとつひとつ訪れ、あるとき洋子は台東区で宝石商の仕事に出合う。
ずっと好きだった宝石の世界。
「大半の宝石は手放していたけれど、夫と一緒に過ごした50年の間に磨かれた審美眼が役に立ったの」
買い手ではなく売り手に回るため、まずは行動、と今までに築いた人脈を辿って買い付けルートの開拓に乗り出し、徐々にビジネスを大きくしていったという話だった。
「結局、お金・時間・自由を全て手に入れたのは70を過ぎてからよ」
洋子は目元の皺を深め、美緒が微笑みながら口を開く。
「私と洋子さんとの出会いも、その頃でしたね」
「そう。美緒さんは大切なビジネスパートナー。会社のWebサイトをデザインしてくれたの。ゴルフに誘ってくれたのも彼女よ」
― おばあちゃんと孫じゃなかったんだ…。
昔話をしながら、和気あいあいと購入したばかりのウエアを見せ合うふたりの姿は、まさしく女友達だった。
紗耶はその光景を見て、感じたままを口にした。
「洋子さん、今幸せそうですね」
「そうね。幸せではあるけれど…夫に頼り切らずに、若いうちから経済力を身につけて自由に生きる人生もあったかもしれない。今となってはそう思うわ」
私はビジネスを立ち上げて自分の力で成功者になる。自立した女として、幸せになってみせる──。
そう考えていた紗耶も心のどこかで、港区でゴルフをしながら経営者層に取り入ることで、起業の資金調達につながるかもしれない…という淡い期待を持っていた。
しかし、洋子の話を聞いて思う。誰かを頼りにして手にした成功には、それと引き換えに失う時間がある。にわかに、自分の甘い考えが恥ずかしくなった。
「今は、女性も自分の力で人生を切り開くことのできる時代ですもんね」
「そうそう。と言っても、私は自分の人生でよかったわ。悔いなしよ。人生をやり直したいとも、誰かと取り替えたいとも思わない」
空を見上げ、洋子は咲き始めた桜に目を細めた。
毛利庭園で咲き始めた桜が、冬の寒さから目覚め、春の訪れを告げていた。
冷たい冬を乗り越えて、年輪を重ねた樹木が何度も花を咲かせる様子は、まるで洋子の人生のようだ。
― 愛する男性と添い遂げた。そして散っていった桜を、自分の手でまた花開かせた──。きっとそれは、最高に幸せな人生だろろうなぁ。
前園からのメールのことは、いつのまにか紗耶のなかですっかり整理できていた。
ときおりひらひらと舞う花びらの下にいると、時が過ぎ去っていく速さを感じる。つまらないことに引っ掛かっていることが、もったいなく思えた。
「洋子さん、美緒さん。桜きれいですねぇ」
「ええ、綺麗ね」
「ほんと」
六本木という大都会の真ん中で、場違いなほどのんびりとした会話を楽しむ。
世間の常識や価値観は時代によって変わる。女性の生き方だって、変わっていく。
― 私はこの先、どんなふうに生きていくんだろう。どんな幸せの形を掴むんだろう…?
打算的に、野心的に生きる自分も、心のままに生きる自分も、どちらも大切にしたい。
そんなふうに考えながらも紗耶は、買ったばかりのピンク色のゴルフウエアをチラリと覗いて思った。
― このウエアは、自己実現のための人脈を作るゴルフじゃなくて…女友達との楽しいゴルフで着たいな。
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この記事へのコメント
そんな男性ばかりではないし、お前が思わせぶりな態度だからだろ!バカヤローが。
社長やエンジェル投資家などのわかりやすい成功者に近寄り、起業の資金調達をしようとしてたのは紗耶。