「譲司がドイツへ発ったあと、私は吉祥寺でひとり暮らしを始めて…。瑛太がICUへ進学したでしょ。外語大とICUって、キャンパスが公園ひとつ挟んですぐ隣なのよ」
「瑛太から聞いてたよ。あいつ、今思えばさくらの近くに居たかったんだろうな」
「じゃあ、その先も知ってるか。結局、瑛太とは縁があったんだよね…」
大学在学中に瑛太と付き合い始めたさくらは、卒業後外資銀行へ入社。瑛太と同棲を始めて1年のうちに、授かり婚をしたのだった。
「それで…私たちが通っていたスクールって、すごく楽しかったじゃない。世界各国の子どもたちが集まって、文化も価値観も違う中でぶつかりあいながら成長して」
「そうだな。あの環境を用意してくれた両親に、感謝してるよ」
「私も。だから、息子に同じことをしてあげたかった」
― 息子を自分と同じようにインターナショナルスクールに通わせたい。そのためには経済力はいくらあってもいい。
その思いで、仕事に復帰した。
しかし、母親としての役目を果たしたかったさくらは、家庭との両立を優先して管理部門に異動したのだった。
外資コンサルでバリバリ働き、出世して責任範囲も増え、年収2,000万以上稼ぐ瑛太。
一方、管理部門での時短勤務にシフトしたさくらの年収は600万円程度。出世は見込めず、仕事の範囲も給与の上がり幅も限られている。
― 息子との時間を大切にしたいし、職場にも迷惑はかけたくない。だから、これが最善策。これ以上はできない。…わかってる。でも。
自分が事実上キャリアを断念したという現実に落ち込んださくらは、徐々に深まっていく瑛太との溝を、埋めることができなかった。
そして、息子の小学校入学を待って、さくらと瑛太は離婚した。
今まで息子が通っていたプリスクールの学費は年間150万円強だったが、小学1年生にあたるGrade1からは年間300万円近くかかる。
加えて、受験料、会費、入学金、建築メンテナンス代…。さくらひとりの財力で、これらを賄うことは現実的ではない。
シングルマザーになったさくらには、息子を高額なインターナショナルスクールへ進学させる夢を、叶えることはできなかった。
「でも、息子は異文化に興味があるみたい。洋書とか外国の画集や写真集が、部屋に溢れてるのよ」
「はは。外国が好きなのか。さくらに似てるな」
譲司の言葉を聞いて、ますます「息子にグローバルな教育環境を用意してあげたかった」という想いが込み上げる。
「そんなところばかり似ちゃってね。私、どこかで間違えたかなぁ…」
あのとき、無理に職場復帰しなかったら。
瑛太に嫉妬なんてしなかったら。
離婚なんてせず、息子はインターナショナルスクールに通い、家族3人仲良く暮らしていたのだろうか──。
にわかに表情をくもらせたさくらに、譲司は優しい声をかける。
「…さくらは、ベストだと思う選択をしてきたんだろ。後悔する必要はない」
「…」
「俺だって、もしもあのとき、と思うことはあるよ。例えば、あのとき日本を離れずに…さくらと一緒にいたら、今ごろ家庭のある生活を送っていたのかもしれない。とかね」
そう言ってイタズラっぽく笑う譲司に、さくらは思わず顔を綻ばせる。
「ふふ。でもなんか、譲司らしくないね」
「だろ。俺は自分の選んだ道を誇らしく思うし、ベストな選択をした。だから今、幸せだよ」
さくらはそれを聞いて、「今、自分は幸せか?」と考えた。
― 確かに。今わたし、幸せだ。
最愛の息子が、元気でそばにいる。
息子に刺激を受けて、少しでも外国との接点を持ちたいと外務省へ転職もした。
仕事はやりがいがあり、まだまだ自分に成長の余地も感じる。
「そうだね。ベストな選択だった。今、幸せだよ」
「俺たちは、間違ってなかったってことだな」
10代で迎えたふたりの離別は、無駄ではなかった。
それぞれが幸せに自分の人生を生きている、と悟った譲司とさくらは、満足そうに顔を綻ばせた。
譲司との食事を終えて帰宅したさくらは、息子の部屋へと向かった。
「ただいま」と声をかけながら部屋を覗くと、息子は米国のビジネス誌を眺めているところだった。
「おかえり。母さん、これって日本人だよね?」
そう言いながら掲げたページは、ドイツのスポーツブランドの広告クリエイティブを手がけた譲司のインタビュー記事だ。
「うん。日本人のデザイナーだよ」
「そっかぁ…。僕も将来、日本の枠を超えて、世界で活躍したいな」
そう遠くない未来の夢を、母に語る息子。その瞳は、キラキラと輝いている。
さくらはこの光景に、自分自身が今幸せであることをあらためて実感した。
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