SPECIAL TALK Vol.104

~病気に苦しむ人だけではなく、日本の医療界を救う医者になりたい~


名声や栄誉よりも強く心をひきつけたもの


大木:結局、流れ流れて第一外科に入りました。呼吸器外科で肺がんを専門にされている先生が格好よかったので、僕も肺がんを希望したんですが、今度は「プライオリティが低いからダメだ」と。

金丸:どういうことですか?

大木:僕みたいに途中から入ってきた研修医じゃなくて、最初から第一外科にいるプロパーの方を優先する、ということです。

金丸:整形外科、第二外科、呼吸器外科が全部ダメだった。でも今や、血管外科はメインストリームですよ。

大木:まあ、結果的にはよかったですね。落ち込んでいたときに、たまたま先輩から「そんなにしょぼくれるなよ。血管外科で一緒にやらないか」と声をかけられ、よく分からないまま「じゃあ、よろしくお願いします」って答えて。それが今に続くんですから。

金丸:ポジティブに考えれば、導かれるように今の専門にたどり着いたともいえます。

大木:そうそう。あまり計算しても計算どおりにはいきません。本能や直感で選ぶとか、「ケセラセラ」精神も大事です。

金丸:その後、アメリカに?

大木:はい、ブラック・ジャックに近づくには、アメリカで修業して腕を磨かなくちゃ、と思ったので。アメリカでも屈指の血管外科施設であるアルバート・アインシュタイン医科大学病院に移りました。

金丸:結果、トップドクターの仲間入りをされました。だけど、大木さんは日本に戻ってこられた。いったい何がきっかけだったんですか?

大木:全米から難しい大動脈瘤患者が集まるようになり、プチ・ブラック・ジャックになったのはいいけど、目標を少し見失いつつありました。新しい手術を開発したり、特許を取ったり、学会で発表したり。結構もてはやされたし、CNNやABCで取り上げられることもありました。だけど、救う患者もアメリカ人、医療技術を教える学生もアメリカ人。

金丸:そんな状況に疑問を持った?

大木:「僕は日本人なんだけどな……」と考えることがありましたね。それに、たまに日本人の手術をすることがあって。日本でさじを投げられた患者さんが、わざわざニューヨークまで訪ねて来られたんです。

金丸:わらにもすがる思いだったんでしょうね。

大木:「大木先生、ありがとうございます!」って言われたとき、アメリカ人を救ったときの「サンキュー」とは違う何かを感じたんです。そして、先進医療を学ぶために僕の病院に留学や見学に来た日本の若いドクターと接していると、なんだかすごく教え甲斐を感じて。「これは、いったいなんだろう」って。

金丸:アメリカでたくさんの人びとを救ったからこそ、今度は日本人を救いたい、日本人と仕事がしたいという気持ちが生まれたんですかね?

大木:まさに。アメリカで新しい手術を開発し、手術不能の壁に挑むことに夢中になり、がむしゃらに働いているうちに、12年が経っていました。渡米9年目に外科教授にまでなったけど、「無人島でノーベル賞を受賞した」寂しさを感じ、トキメキが枯渇しはじめていたんです。

金丸:トキメキの枯渇。なんとなく分かる気がします。患者さんから感謝され、周りから評価されても、「これでいいのだろうか?」というような。

大木:祖国の患者の命を救いたい、祖国に貢献したい。僕のなかにそういう気持ちが湧いてきた頃、母校である慈恵医大からSOSが来ました。

金丸:慈恵医大はピンチに陥っていたんですか?

大木:慈恵医大全体では「慈恵医大青砥病院事件」の余波で戦後初の赤字となっていました。また上部・下部消化管、肝胆膵、呼吸器、乳腺・甲状腺、血管、小児と7つの領域が傘下にあった外科学講座でも人心が離れ、離職が続きました。今は外科医局全体で300人に迫る規模ですが、帰国当時は190人にまで減ってしまって。

金丸:それはいったいなぜなのでしょう?

大木:外科医は肉体的にも精神的にもハードワークな3Kだからです。トレーニングも勤務も過酷だし、手術が長時間にわたることもあるし、患者さん側から訴えられる法的リスクもある。それに患者さんが亡くなる危険性だってある難しい手術はかなりのプレッシャーがかかります。

金丸:外科医は医師のなかでも、かなりキツい労働環境なんですね。

大木:しかも日本って、外科医の給料がOECD、G20、G7のなかで最低なんですよ。平均では日本の外科医の給与は米国の3分の1程度です。

金丸:そんなに大変な仕事なのに、給料まで安かったらやってられません。

大木:でも、3K以上に堪えたのが世間から何かあったら医療ミスと叩かれる、呼応するようにモンスターペイシェントが現れ、結果として「外科のトキメキ」が分かりにくい状況が生じたことです。そして、これまでボランティア精神で頑張っていた外科医達の心が折れたのです。そこで「何とかしてもらえないか」と僕に声がかかりました。

億を超える報酬を蹴り、母校の外科改革に乗り出す


大木:そのとき、僕の前には選択肢が3つありました。ひとつはアメリカの病院に残る。当時の給料は1億円でしたが、「日本に帰ろうと思う」と伝えたら、「給料を倍にするから残ってくれ」と言われました。

金丸:「倍払ってもいい」って、すごいですね。

大木:売れっ子でしたからね(笑)。ふたつめが、アメリカに本社を置く医療機器大手の日本法人の社長です。

金丸:そんなところからも声が。

大木:「年収は8,000万、家賃は250万、運転手付きでどうですか?」と条件を提示されました。「東京で月20万の家賃だと、ちょっと」と返したら、「違います。月250万です」って。

金丸:家賃だけで、年間3,000万円ですか。これもすごいですね。で、最後の選択肢が慈恵医大ですが、どんな条件だったんですか?

大木:込み込みで年間800万円です。

金丸:えっ?ちょっと低い方の桁違いじゃないですか。それでも、ほかの好条件を蹴って、なぜ慈恵医大を選んだのですか?

大木:考えたんですよ。収入が800万になったとして、子どもたちに十分な教育が与えられるか、飢え死にしないか、衣食は足りるのかって。それで「大丈夫だ。暮らせる」と判断したので、慈恵医大に戻ることにしました。「衣食足りたらトキメキを求めよ」、と若手に説いていますが、それを実践したまでです。何より“母校と外科を救う”というミッションに、ものすごいトキメキを感じました。そういう意味では、合理的な決断だったと思っています。

金丸:戻られてから、大木さんはどのような立て直しをされたのですか?

大木:2007年に外科学講座の統括責任者に就任し、「トキメキと安らぎのある村社会」というスローガンを掲げました。

金丸:また「トキメキ」が出てきましたね。しかし、「村社会」というのは?

大木:外科医の待遇が海外に比べて悪いという話をしましたが、僕ひとりで、いきなり解決できるレベルの問題ではありません。だけど、待遇を知ったうえで、それでも外科医を志望する人って、ボランティア精神にあふれていて、医者というより消防士のような使命感を持っているんです。

金丸:炎のなかにも突入していくような。

大木:そういう気質の人たちを集めるには見えづらくなっていた「外科医療のトキメキ」を見える化したうえで、組織求心力を強化するために村社会のような密なコミュニケーションが必要だと考えました。

金丸:だけど、当時はそんな人でも心が折れてしまいそうな環境だったんですよね。

大木:そうですね。僕の場合、もっぱら手術不能患者の救命をしていたこともあり大いに喜ばれる環境だったし、世間には迎合しなかったので心は折れなかったけど、日本に戻ってきてから怒涛の日々で過労で4回入院しました(笑)。

金丸:笑い話じゃないでしょ(笑)。

大木:睡眠時間は4時間。たとえば外来では朝9時から始め、3食抜き、休憩なしで翌朝の5〜6時まで働き詰め。つまり外来だけで連続20時間くらいぶっ通し。給与が安い上に毎月のサービス残業が200〜300時間もあったので、時給換算すると1,000円程度になっていました。でも使命感をもち、やり甲斐を感じていたので心は折れませんでした。

金丸:大木さんほどの命を救う技術を持った医者に対する待遇とは思えません。

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