その日の夕方。
誰にも気づかれないようにオフィスを後にしようと思ったのに、鋭い菜緒に見つかった。
「あ、梨沙子、待って!私、結婚することになったの!直接ちゃんと報告したくて…!これでようやく、梨沙子に追いつけたよ~」
夫はIT系の経営者で、新居は青山一丁目らしい。誰もが羨むような成功をつかんだのだ。
「おめでとう~、よかったね!」
なんとかお祝いの言葉を絞り出すも、菜緒は取引先から電話がかかってきたといって、すぐ仕事に戻っていった。
菜緒の電話に出た瞬間の声色や表情は、真剣そのもの。そんな風に打ち込める仕事があることが本当に妬ましかった。
…それだけじゃない。
手入れの行き届いた肌や髪、入社当初から変わらない抜群のスタイル。シンプルだけど、質感の良さがわかるジャケット。デスクに置かれていた、LOEWEの新作バッグ。
SNSに度々ポストされる、キラキラした日常…。
“結婚”に関して、菜緒は私に追いついたかもしれない。だけど、キャリアやキラキラした生活は、もう私は菜緒に追いつけない。
そのどうしようもない事実と対峙したとき、怒りにも似た感情が、自分でもコントロールできない域まできたことを感じたのだ。
…そして、やるせない気持ちの矛先は、意外な方向へと向かってしまった。
◆
それから、3ヶ月。
私の気持ちは、だいぶクールダウンした。…しかし、私の中の別の感情が、たかぶってやまない。
<梨沙子さん、今日会えたりしないかな?>
メッセージが着信する度に、単調で些末な日常が一気に色づく。自分が女であるということを思い出せる。
<ごめん今日は予定あって会えないけど、私も早く会いたいよ…!>
色っぽいやりとりをするだけで、私も何かを取り戻せる気がするのだ。
最初は、菜緒には強い嫉妬心を抱いたけれど、冷静に考えれば菜緒に非はない。
― 悪いのは、誰か?
突き詰めた結果、それは夫だと気付いたのだ。
そもそも、私は25歳で結婚・出産なんてするつもりなかった。もっともっと仕事も私生活も楽しみたかった。
“デキ婚”がすべての始まり。
…でも、子どもは“できちゃった”わけじゃない。避妊しなかった夫の無計画さに、私の人生は狂わされたのだ。
「実は、梨沙子と早く結婚したかったんだよね。他の男にとられたくないし」
新婚当初、夫はそんな風に言った。当時は嬉しかったその言葉も、今となっては私を苛立たせる。
結婚生活が5年目を迎えた今でもなお、夫は私を愛している。
…でも、いやだからこそ、私はこの情事たちを楽しむことで腹いせをしているのだ。ただただ刺激や色っぽさを求めているだけじゃない。
<今日、予定通り会えそう?>
<うん、大丈夫。旦那が早く帰ってきてくれたから、子供見てもらえそう>
クローゼットからお気に入りの服や新しい下着を引っ張り出して、私はオンナへと着替える。
そんな私を、夫は不審に思っているだろうか。いっそのこと気づいて欲しい。そして、傷つけばいい。私から一番いい時期を奪った罪の重さを、思い知るがいい。
「ママ、今日帰り遅くなっちゃうと思うけど、ごめんね」
「え~、やだやだ」
駄々をこねる子どもを適当にあやしながらも、どうしようもなく胸がときめく。
鏡に映る、完成された自分に、私の自尊心は満たされて行く。
きっと今の私なら、オンナとしても菜緒に負けてない。…いや、むしろ私のほうが色気があるかもしれない。危険な関係を楽しむ女特有の色気が、きっと今の私からは放たれているはず。
痛い女って思われるかしら?
でも、なんて言われても構わない。だって、本当はこんな人生歩むつもりじゃなかったんだから。夫のせいで、間違えてしまっただけなのだから。
少しくらい楽しんだって、許されて当然でしょ。
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今まで外の世界を全く知らなかったお嬢様。ある女性と出会ってから、暴走が止まらなくなる…。
この記事へのコメント
イラッとする内容だったけど1話完結なのでまぁ来週に期待。