「へえ、詩乃ちゃんって、お酒強いんだね」
―えっ。いま、詩乃ちゃんって言った?
いつの間にか目の前に移動してきていた亮が、詩乃の顔を覗き込んでいたのだ。
「ねえ、聞いてる?…良かったら、これからウチで飲み直そうよ」
亮は、詩乃だけに聞こえるよう、グッと詩乃に顔を寄せて言う。詩乃は驚きのあまり、目を大きくして彼の方を見た。
「ちょっと、そんなにわかりやすく反応したら、小さい声で誘った意味ないんだけど?」
亮は呆れたように笑う。その間も、詩乃はこの状況を信じられないでいた。
詩乃はモテる方ではなく、どちらかというと地味なタイプで、自分の意見や考えをハッキリ言うのが苦手だ。
食事会にも誘われるが、こんな風に「ふたりで」なんて言われたのは初めてのことで、嬉しい気持ち半分、むしろからかわれているのではという疑い半分なのが、正直なところだった。
「で、どうする?俺は詩乃ちゃんと、もう少し飲みたいと思ってるけど」
亮の強引な態度の影にある、少しの優しさ。それに気付いた詩乃は、無意識のうちに首を縦に振っていた。
それは、詩乃なりの精一杯の意思表示だった。
亮の見事な振る舞いで、2人は自然に二次会を抜け出した。亮のマンションは偶然にも、詩乃の職場と同じ自由が丘にあるらしい。
「じゃあ仕事終わりに、いつでも会えるね」
たったさっき会ったばかりの詩乃に、こんなにも甘いセリフを吐く男。
頭の片隅では、危ない人だと分かっている。
しかし何を考えているのか分からない、ミステリアスな亮が、今は自分だけに微笑みかけてくれている。それだけで、もう「細かいことは気にしないで楽しもう」という気持ちになるのだった。
慣れた様子でエスコートされ、向かった彼の部屋。余計なモノが置かれていないシンプルなリビングは、とらえどころのない亮の印象とぴったりだった。
彼と共にソファーへ腰掛け、ワインで2度目の乾杯をする。ほんの少しの沈黙すらも気まずくて、詩乃はとっさに口を開いた。
「…亮さんは会社を経営されてるんですよね。スタートアップ、でしたっけ?どこにあるんですか?」
冷静さを取り戻すため、食事会のときにはあまり話題にのぼらなかった、彼の仕事内容について聞いてみる。詩乃にしては積極的に踏み込んだ方だ。
「なんでそんなこと詩乃ちゃんに教えないといけないの?」
すると亮は、なぜだか恐ろしいほどの無表情で言い放ったのだ。返ってきた予想外の冷たい声に、詩乃は目を見開いて口を閉ざした。
「な~んてね、冗談だよ。AIアプリの開発系のスタートアップ。渋谷にオフィスがあるよ」
―えっ。いまの返しは、なんなの…?
気が動転した詩乃は、亮の言葉にうまく反応できず、押し黙る。しかし次の瞬間、詩乃のそんな思考は一気に吹き飛んだ。
詩乃の左肩を抱き寄せた亮が、いきなりキスをしてきたからだ。
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