翌朝。
幸せな気持ちで目覚めたはずの優だったが、体が重くベッドから起き上がれない。
どうにかキッチンに立ち、食パンをトースターに入れたものの、パンを焼く香ばしい匂いでさえ胸焼けがした。
―あれ? これもしかしてつわり?
吐き気に加えて、暴力的なまでの眠気が優を襲う。さらに、それにともなう頭痛で、仕事どころかまともに動き回ることすらできない。
そんな状態は、数週間続くことになった。
いよいよ仕事がままならなくなっていた優は、椅子にもたれながら深くため息をつく。
優はフリーランスのデザイナーではあるが、チームのような形で何人かの同業者と連携をし、オフィスをシェアしている。
美大の織物学科出身なので、同じ境遇の仲間たちと横のつながりを持ち続け、急病や、仕事を抱え過ぎて手が回らなくなったとき。反対に手持ち無沙汰のときなどに声をかけるなどして、フォローし合える“お互い様”の環境を作っているのだ。
―つわりに悩まされてるって報告したら、きっとみんな、快く手伝ってくれるとは思うけど…。
でも…、とためらいながら、優はまたしてもため息をついた。芸能人が安定期に入ってからやっと妊娠を報告する気持ちが、よく分かる。胎嚢は先日確認できたものの、心拍確認前の流産は、可能性としては決して低くないのだ。
思い悩んだ末に優は、結局デザイナー仲間に告げることはせず、自分でなんとか仕事をこなした。
―まだ妊娠報告するタイミングじゃないよね…。何かあったときに、変に気遣いさせちゃうし。
しかし、そんな優の心境など知ってか知らずか、亮介の態度は能天気そのものだった。
「優、赤ちゃんの話をしたら、上司も実は体外受精だったって教えてくれて。けっこう多いんだな」
妊娠初期の段階でそんな話をしている夫に、優は思わずモヤモヤしてしまう。
「え?もう上司に言ったの?まだ何があるかわからないって言ったよね?それに、不妊治療の話、あまり人にベラベラ話さないで欲しい。すごくプライベートなことだよ」
「おめでたい話だから、良いと思って…。ごめん」
「家族に伝えるのも、赤ちゃんの心拍確認できてから。それ以外の人には安定期入ってから伝えたいの」
そう優が言った途端、亮介は気まずそうに言い淀む。
「あ…家族なんだけど…」
「まさか…言ったの?お義母さんに?」
「いや、うちの母さんじゃなくて、優のお母さんに。実はしょっちゅう“赤ちゃんはまだか”って俺に連絡してきてたんだよ」
亮介の話を聞けば聞くほど、目眩がしてくる。この目眩はつわりの症状ではなさそうだった。
正直、妊娠したことを伝えるのを一番煩わしく感じていたのが、実母だった。娘の優ではなく亮介に連絡をしている理由は、なんとなく察しがつくのだ。
「あーー。もう、本当に最悪な気分」
つわりの気持ち悪さも相まって、優は思わずそう言っていた。言葉につまり、涙が出そうになる。普段、こんなことでは泣くはずがないのに、情緒がずっと不安定なのだ。
「ごめん。プレッシャーになると思って、優にはお母さんから連絡が来ていたこと、いちいち言わなかったんだけど…」
「勝手に妊娠のこと人に喋る亮介も嫌だし、無神経なお母さんはもっと嫌!」
謝っている亮介に対してのひどい言葉が、どうしても止まらない。亮介の方も優のことをどう扱って良いのかわからない様子で、おろおろと「ごめん」と繰り返すだけだ。
優は、「少し一人になりたい」とだけ言うと、リビングルームを出る。
しかし、廊下のひんやりとした空気を感じた瞬間、下腹部が鈍く痛み出した。
「痛い…」
生理痛に似た重い痛みが次第に強くなり、思わずその場に座り込む。
その瞬間、下着の中にドロリとした違和感を覚え、優の心臓は止まりそうになった。
「亮介…!大変、出血したみたい!!」
優は祈りを捧げながら、お腹を守るような姿勢で廊下にうずくまる。
―赤ちゃん、お願い、無事でいて…!
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苦しむ優の元に現れた、実母の言葉とは?
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この記事へのコメント
(年齢は私のが1歳上ですが)
会社は不妊治療してること知ってるから、妊娠したって言うか迷ってましたが、やっぱり早いですよね。朝一読んで良かった!笑