勘の鋭い僕の妻
「…ずいぶんとご機嫌ね?」
木下百合と約束をした朝。
歯磨きをしながらつい鼻歌を口ずさんでしまった僕に、ちょうど洗濯機を回しにやって来た妻が怪訝な目を向けた。
「いや?別に…そうそう、今日は午後診療のあと学会に出かけてそのまま会食があるから遅くなるよ」
努めて冷静に、さりげなく。僕は妻に疑われることのないよう細心の注意を払った。
その甲斐があり、洗濯機の操作を終えたらしい妻は一言「そう」とだけ呟くとリビングへと戻っていった。
その後ろ姿を見送る僕は、ホッと胸をなでおろす。
アリバイ工作、完了…の、はずだった。
しかし結論から言うと僕は結局、木下百合と再会できずに終わったのだ。
“至急、電話ください”
その夜、浮かれ足で約束の場所へと向かう僕を現実に引き戻したのは、妻から届いた短いLINEだった。
妻がこうして敬語を使うのは、まず間違いなくヤバイ事態が起きている時だ。
背筋がヒヤリ、と冷たくなる。
できることなら逃げたいが、ここで妻に従わなければますます事態は悪化するだけ。僕は観念し、すぐにコールバックをした。
「あなた、私に嘘ついたわね。衛生士の女の子に確認したら、今日学会の予定なんかないって言われたわよ。一体あなた今、どこにいるの?」
ワンコールで電話に出るやいなや、妻は早口でまくし立てた。
衛生士に確認した…?
何をしてくれているのだと呆れるも、今そんなことを言おうものなら火に油だ。
「え、いや、それは衛生士が知らないだけで…」
「今、どこにいるの?」
慌てて答えた僕の声を、しかし妻がドスの効いた声で遮る。
僕が今どこにいるか。その答えは、木下百合と待ち合わせた白金の『ロッツォ シチリア』だ。
だがまさかそれを言うわけにはいかない。疑心暗鬼となった妻の恐ろしさは、この5年の結婚生活でよくよく知っている。居場所を突き止めたが最後、必ず僕を連れ戻しにやってくるに違いない。
時刻は18時55分。
あと5分もすれば、ここに木下百合がやってくる。妻と鉢合わせなんて修羅場は何がなんでも避けなければならない。
この記事へのコメント
「さっき院長夫人から探り入ったんだけど。」
「院長、浮気バレてるwww」
ってバカにされてそう。