「…ちょっと、急じゃないですか?」
もちろん、嬉しくないわけがない。だがさすがに、早すぎるのではないだろうか。そう思うと、返事を躊躇われる。
声が震えぬよう、瞬きが早くならないよう、結衣は努めて冷静に切り返したのだった。
結衣が躊躇しているのが分かると、健はさらにこう畳みかけた。
「だってさ、最終的に付き合うのに、3回のデートって必要?俺は吉田さんの仕事ぶりを知っているし、前からずーーーっといいな、って思ってたんだけどな…」
少々強引だが、かなりのやり手営業マンと言われる彼らしい言葉である。だが、まだ「早すぎるのではないか」という思いが拭えない。
しかし、次の瞬間。
「吉田さん…」
健の腕の中に、結衣はすっぽりくるまれたのだった。
「…ね?付き合おう?」
結衣の中で、甘やかな感情が大きく振れる。こんな気持ちは、いつぶりだろう。結衣は健の腕の中で、こくりとうなずいた。
「よかった……」
健は、グッと腕に力を込めた。その腕の強さから、彼の喜びが伝わってくる。
しかし結衣がその腕に身を委ねようとした、その瞬間。健から思いもよらない言葉が発せられたのだ。
「もう少し一緒にいたいんだけど、実は今日、どうしても営業部の飲み会に顔を出さなくちゃいけなくて……。またあとで、電話してもいいかな?」
「え……?」
「本当にごめんね」
そう言うと、健はタクシーを拾うため大通りに向かった。
―普通、付き合ってすぐに会社の飲み会に行く……!?
非常識とも思える健の行動に、結衣は困惑する。
健の所属する営業部は、創業者である会長の影響を未だに受けている組織で、彼はそこで一番の中心メンバーである。今日、下期の決起会をすると突然会長から連絡があったと言うのだ。
たしかに、その飲み会に行かなくてはならないという状況は、社内恋愛だからこそわかることでもある。また今後、仕事第一の結衣だって同じような状況に置かれるかもしれない。
タクシーを捕まえた健は「付き合ったことは社内では内緒ね。」と言い、結衣を一人タクシーに乗せた。
こちらに向かってずっと手を振る健を見つめながら、結衣はタクシーの窓越しの景色を眺めていた。
社内で秘密にすることは、もちろん問題ない。周りから冷やかされるのはもっての外、今進めている営業部へのコンプライアンスのテコ入れもあり、悪目立ちはしたくない。
それに、社内で健に想いを寄せる女性を何人も知っている。
だが…。
―付き合った実感、ないなぁ…。
微かな寂しさが、結衣の心を襲う。
そんな気持ちを追い払うように、結衣はスマホで社内メールを確認する。するとその中に、とあるカレンダーの設定通知が混じっていた。
『株主総会 運営顔合わせ』
少し前にキックオフMTGをしたのに…と不思議に思いながら、結衣は招待メンバーを確認した。するとキックオフMTGにはいなかった上役が随分と増えている。
「今年、何か大きな発表でもあるのかしら…?」
この株主総会が2人の運命を大きく左右するとは、結衣はこのとき、夢にも思っていなかった。
▶NEXT:7月31日 火曜日更新予定
幸せな2人に音もなく忍び寄る、社内の魔の手。
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この記事へのコメント
ライターさん、あまりうちの会社の内実暴露しないでね笑。
社内恋愛だと、そう言いたくなる気持ちはわからないでもないけど。
でも、いざとなったら乗り換え・逃げ切り作戦に出るんじゃないかと、不安にしかならない。
初っ端から不安にしかならない恋は、やっぱり続かない。