1週間後。
慎吾が指定してきたのは、桜丘町にある『高太郎』。
他の人と行くつもりで1ヶ月前から予約していたが、その人の都合が悪くなったらしい。
私も数年前に一度訪れたことがある。
その時も食べたと思うのだが、讃岐メンチカツが絶品で、ビールと合わせると最高だった。
再開発が終わらない渋谷。新店も次々とオープンしていくなかで、美味しさが保証されている安心感は、私たちの食事にはぴったりだった。
「俺の家、この近くなんだけど。もう少し飲んで行かない?」
食事の後、慎吾は私をストレートに誘った。
「家で飲むの?」
「うん。ほら、いいから行こう!」
学生の頃は、渋谷で飲んだあと、酎ハイをコンビニで買って宅飲みするのが、私たちの定番だった。
慎吾は、今日もその感じで私を誘っているのだろうか。そうだとしても、感情が追いつかない。
でも、行かない理由も見当たらなかった。
◆
「白ワイン飲む?これ、値段の割に結構美味しいみたいよ」
慎吾の部屋に入ると、リビング中央のソファに座るように促される。
エチケットにはブレッド&バターと書いてあって、慎吾はそれをグラスに雑に注いだ。
― そういえば、祐奈も白ワインにハマってるって言ってたなぁ…。
そんなことを思っていると、慎吾が横に座りグラスを私に手渡す。
「あのさ、俺ホントは知ってるんだ。美和が俺のこと…。ごめん。随分前に人から聞いて…」
― ひっ!
思いもよらぬ事実の発覚に、心拍数が上がる。
「そうだったんだ。あ、でも過去の話だから忘れて。気まずくなりたくないし。それに、こうやって会ってるのだって、アキラがけしかけてきたのもあるでしょ?」
体中から嫌な汗が出てくるのがわかる。
「違うよ。アキラに言われたからじゃない。美和のこと、いいなって思ったから誘ったんだよ」
「……そうなの?えっと、いつから?」
私は真顔で尋ねる。
「それはごめん。学生の頃からじゃなく、スクランブル交差点で偶然会った日。美和って可愛かったんだなぁっていうのと、昔の俺を知ってる人だから安心した」
「昔の慎吾を知ってる…か」
独り言のように呟いた次の瞬間、慎吾が私を抱き寄せた。
爽やかさの中に、ほろ苦さを感じる匂いがする。
「美和、今も俺のこと好きなの?」
「す、すきだよ」
そう言うしか選択肢はなかった。
私は慎吾が好き。サークルの中で中心人物で、みんなに好かれていて、行動力のあった慎吾が。
だから今の慎吾も好き。
私は、目を閉じて彼に身を任せた。
「あっついね。美和、水飲む?」
「ありがとう」
正直言うと、そこまでの感動はなかった。なるほど、こんなものか…というのがリアルな感想だ。
ずっと願っていた状況。そこに急に置かれたから、戸惑っているのだろう。
けれど、隣で寝息を立てているのは、間違いなく遠野慎吾で、私が4年間思い続けた男なのだ。
― 大丈夫。幸せ、幸せ。幸せ。これでよかった。
そう自分に言い聞かせ目を閉じると、慎吾のスマホが振動した。
そのバイブは鳴り止まない。
― 電話…ん?
私は、無意識のうちに通話ボタンをタップした。画面に『祐奈』と表示されていたからだ。
「なんでLINE返してくれないの?まだ怒ってる?ごめんってば。お願いだから、もう仲直りしようよ」
私は、慌てて通話を終了した。
― 祐奈…が慎吾と?えっ…!?
勝手に電話に出たことを後悔する暇もなく、ひたすらに混乱した。
心臓をバクバクさせたまま服を着て靴を履いたが、家を出る頃にはだいぶ冷静になれた。
「あぁ、だからあの時…」
4人で会った時の祐奈の言動を思い起こすと、慎吾と何かあったようにも受け取れる。
けれど不思議なことに、ふたりの関係を知りたいとは思わなかった。
私が好きだったのは、昔の慎吾。なのに、気づかないふりをしていたのだ。
それを認めると、胸の奥がすっと落ち着いた。
「あ、サクラステージ…」
タクシーを拾おうとしばらく歩くと、桜丘の新しい商業ビルが目に入る。
渋谷の街は、着実に変化…いや進化している。それなのに、私はどうだろう。
今を一生懸命に生きることより、美化された記憶を大事にしすぎたのではないだろうか。
私も前を向いて歩かなければ。
「今度、行ってみようっと」
真夜中の渋谷で、私は生ぬるい夜風に当たりながらつぶやいた。
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