2024.03.26
今日、私たちはあの街で Vol.7「譲司さん、フィードバックありがとうございました。また対応完了次第、報告します。それでは…」
深夜23時。ドイツにいる譲司への進捗報告が終わり、プロジェクトはいよいよ山場を越えようとしていた。
― 年が明けたら、アプリのリリースだ。そして譲司さんが来日する…。
美緒の胸に込み上げていたのは、喜びや楽しみといった気持ちではない。
譲司と仕事で話すたび、その顔をモニター越しに見るたび、余裕のある声のトーンを耳にするたびに──。
まるで何かにせき立てられているかのように、美緒の心が落ち着かなかった。
美緒が譲司に対して抱いている感情。それは当初、ロールモデルとしての憧れだったが、いつしか羨望へと変化していた。譲司の才能や、自由な生き様に対する羨ましさと、自分自身に対する焦り。
― 私、このままでいいのかな。
14年間WEBデザイナーを続けて、個人としての知名度もあげてきたつもりだったが、結局は大企業にいる以上は歯車の一つに過ぎないのではないか?
大企業にしか勤めたことのない美緒は、企業名を背負ってでしか自身を語れないことに、クリエイターとしての疑問を抱き始めていた。
さらに、美緒の頭を悩ませる出来事がもう一つあった。予算の都合で、咲の契約延長が難しいかもしれないと上長から相談を受けたのだ。
― 今の咲さんはチームには欠かせない存在だって、何度も交渉しているけど…。
予算の話を出されては、一社員である美緒の立場ではどうすることもできない。こちらの意向を強く伝えて、会社としての判断を待つのみだった。
翌朝美緒が早めに出社すると、すでに咲がデスクについている。
こちらに気づいた咲に美緒は笑顔で手を上げたが、顔を上げた咲の目には涙が滲んでいた。
― まさか…。
恐れていたことが起きたのでは、と美緒の顔色がさっと変わる。
「どうしたの?」
「私…もっと美緒さんの元で働きたかったです」
話を聞くと、プロジェクトもクローズ段階に入り、予算担当者から年内での契約終了を言い渡されたとのことだった。
「そんな…」
やはり止められなかったんだ、と美緒は自身の無力さを心の中で嘆いた。
「チームのお荷物という印象が払拭できなかったみたいで…私が早く戦力として、地位を確立できていれば。デザインも英語も、もっと勉強しておけばよかったです…」
嘆く咲の肩に、美緒はそっと手を置いた。
美緒に心配をかけまいと気丈に微笑む咲。その瞳が赤く染まっていたのは、涙をぐっと堪えているからに違いない。
けれど美緒はその様子を見て、今この瞬間が、咲の成長に必要な転機であることを確信した。
「今からだって遅くない。まだ若いんだもん、いくらでもチャンスはあるよ…」
◆
それから4ヶ月が過ぎ、六本木ミッドタウンは最も華やかな季節を迎えた。
ズラリとグラスが並んだテーブルの向こうには、見慣れたはずのミッドタウン・ガーデンの風景が桜の花に彩られて楽しげな春色に染まっている。
「それでは、アプリリリースも無事済んだということで、乾杯!」
プロジェクトリーダーとして高らかに挨拶を終えた美緒は、テラスから見える咲き始めの夜桜に目をやる。
― また、春が来た。けど…。
1年前、同じようにここで季節を感じた。けれど、馴染み深い『Artisan de la Truffe』が会場だというのに、何かが足りない。
― やっぱり、咲さんがいないと寂しいな。
美緒はこの場に咲を招待していた。しかし、咲の姿は見えない。
やっぱり、契約が打ち切りとなった職場の打ち上げに来るのは、気が重かったのだろうか。
そう思いつつもどこか期待を捨てきれない…。ため息をついた、その時。
会場の入り口から照れくさそうな顔がのぞいた。
「美緒さん、お久しぶりです。アプリリリース、おめでとうございます!」
咲の登場に場がパッと明るくなり、楽しげにチームメンバーの輪に溶け込んでいく様子に、美緒は胸を撫で下ろした。
咲をこの場に呼ぶことには、チーム全員が賛成した。
咲は美緒が海外出張で飛び回っている間にチームの要として人一倍働き、少なくともメンバーからの信頼はきちんと得ていたのだった。
食事を終えて各々がくつろぎ始めたタイミングで、美緒は咲の隣に座った。
「美緒さん、報告があるんです。実は…所属するデザイン事務所を休職して、春から北欧のデザイン学校に通うことにしました」
「ええ!おめでとう。北欧かぁ、ワクワクするね」
「はい。行くからには楽しんで…成長してきます。遊びに来てくださいね」
そして迎えたお開きの時間。
「応援してる」と告げて、美緒は咲と別れた。
桜でも眺めて帰ろう、と庭園を乃木坂方面へ歩いていた時、目の前に現れた男性を見て美緒は心臓が飛び出そうになった。
「譲司さん!」
― さっき打ち上げの会場で挨拶はしたけれど、緊張でほとんど話せなかった…。まさかここで会えるなんて!
譲司は驚いた様子でこちらを見たが、すぐに美緒に気がつき笑顔になった。
「美緒さん。アプリのリリース、あらためておつかれさま。おかげでとても良いものが世に出せたね」
憧れの人からの労いの言葉に、美緒は胸がいっぱいになる。
それと同時に、譲司との仕事はひと段落したのだという実感が湧いてくる。直接話せるチャンスは、二度とないかもしれない。
「譲司さん、あの…私ずっと尊敬していました。あなたの背中を追って、デザイナーになると決めたんです。デザインで、世の中の課題を解消したいって」
切迫した美緒の様子を見て、譲司は何かを考えている。美緒は慌てて言葉を繋いだ。
「それで…一緒にお仕事できたことに感謝しています。ありがとうございます」
無理やりまとめてしまった言葉。しかし葛藤の末、美緒は本心を吐露した。
「でも、実は…このままでいいのか悩んでいて。譲司さんと一緒に仕事して、あらためて思ったんです。まだ成長したいって」
それを聞いた譲司は、ポケットから何かを取り出して美緒に手渡した。
「今からだって遅くない。まだ若いのだから、いくらでもチャンスはある」
触れた手の温かさに感動しながら、美緒は驚いて譲司の顔を見た。
なぜならその言葉は、美緒が咲にかけた言葉とほとんど同じだったからだ。
人生の転機に立ち会った瞬間にかけた、小さく背中を押す言葉。
― 譲司さんはどんな想いをこめて、この言葉を私にくれたのだろうか…。
探るような美緒の表情を見て、譲司は目で「手の中を見て」と合図する。
美緒の手に乗せられたのは、譲司の名前とWEBサイトのみが記載されたシンプルな名刺だ。
しかしロゴだけが印刷された裏面には、デザイン事務所の住所と電話番号が手書きで記入されている。
宮坂譲司の個人事務所は、連絡先非公開。その手書きのメモつきの名刺は…美緒が憧れの人に認められたという、ゆるぎない証拠なのだった。
「経験を積んだあなたは、どんな世界にだって出ていけるよ。良かったら、一度遊びに来て」
笑顔で去っていく譲司が、六本木の夜景に溶け込んでいく。
彼の背中を見送った美緒は、もらったばかりの名刺を夜空に掲げてみた。
満開の桜でいつもより明るい夜空を背景に、名刺がいっそう輝いて見える。
明日から紡がれる未来の楽しい予感を胸に、美緒は名刺を大切に鞄へとしまった。
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