「えー!また帰っちゃったの?超優良物件だったのに」
翌週月曜日の、仕事終わり。渋谷にある『347 カフェ&ラウンジ』で女子高時代の友人・綾乃に事の顛末を話して聞かせると、そう言われてしまった。
そういう彼女も、恋愛こじらせ中の27歳なのだが。
「大手広告代理店勤務の32歳で、両親は神奈川の専門学校グループを経営してて、おまけに親がマンションを所有してるから家賃はかからないって…。完璧すぎるじゃん!」
綾乃は以前LINEに送った彼のスペックを読み上げて、呆れたような声をあげた。
「家くらい行けばいいのに。今の藍実は可愛いんだから、ワンナイトになんてならないって」
「今の藍実」という言葉に含みがある。実は数年前まで、私は今より10キロも太っていて、ちっとも垢抜けない雰囲気だったのだ。
「“中村先輩事件”から、藍実は本当にガードが堅いよね。いいことだけど」
「事件って…。そんな大したことないよ」
◆
それは5年前、忘れもしない社会人1年目の頃のこと。
私は社内の若手メンバーが参加する、ある飲み会に来ていた。そこで声をかけてきたのが、以前少しだけお世話になった、隣の部署の中村先輩だったのだ。
「広瀬さんって、どんな映画が好きなの?」
彼は当時25歳。明るい性格からか、人望があっていつも誰かしらに囲まれていた。そんな憧れの先輩に話しかけられて、私の胸は一気に高鳴る。
「好きな映画、ですか…?」
目の前に座った先輩を前に、ちっとも有名じゃないアート系映画のタイトルを口にする私。すると彼は、その話題に食いついてきた。
「へえ、観たことないや。どんな話なの?」
私は夢中で、難解なアート映画について熱く語った。そしてそれをうなずきながら真剣に聞いてくれる先輩に、ドキドキしてしまったのだ。
しかし、そのときは唐突に来た。
締めの挨拶が終わり、荷物を手に立ち上がろうとする。すると彼が、耳元でこう囁いたのだ。
「俺、三茶に住んでるんだけど。このあと、うちで一杯だけ飲まない?」
「…えっ?」
先輩から突然の誘い。
でも私は途端にシラケた気分になってしまった。
憧れていた先輩の「一杯だけ飲まない?」が、とても安っぽい口説き文句に聞こえたのだ。
そんな軽い誘いには乗りたくない。結局私は先輩の誘いを断って、1人終電で帰宅した。
◆
過去を思い出していた私が我に返ると、綾乃がこちらをジッと見ていた。
「もう先の見えない恋愛している時間はないし、優良物件には飛びつくべきだと私は思うけどね。人のこと言えないけど。…あ、もうこんな時間。そろそろ行きますか」
今夜は渋谷のIT企業に勤める男性たちと、食事会をする予定なのだ。集合場所の『レガート』に着くと、すでに数名が到着していた。
「あと1人は少し遅れてくるから、始めちゃおっか」
そう言って食事会が始まったが、正直つまらなすぎる。彼らの話にうなずくだけの時間を過ごしていた、そのとき。背後から声がした。
「遅れてごめんなさい…!」
どこかで聞いたことあるような声だな。そう思いながら振り返った瞬間、思わず口から心臓が飛び出しそうになった。
そこに立っていたのは…。
例の、中村先輩だったのだ。
この記事へのコメント
早朝起こされて 朝マックしよう!言われたらショックだし😂
中村先輩は元々藍実が好きだったんだね。良かった良かった。
確かに、5年前中村先輩が言った 「この後ウチで1杯飲まない?」は安っぽかったねw