美菜は28歳。篤彦は48歳。20歳の年の差があるので、親子と言われても仕方がない。実際バツイチの篤彦には、前妻との間に20代の子どもがいるのだ。
「篤彦さんは若くないんだから、無理しないで。毎日迎えに来なくたっていいのに。1人で帰れるよ」
「ダメダメ。こんな遅い時間に1人で帰すわけにいかないよ。これからも毎日迎えにくるから」
篤彦も美菜も仕事が忙しく、家で一緒に過ごせる時間はほとんどない。なので、この深夜の30分のドライブが、2人にとってとても大切な時間だった。
「運転のおかげで晩酌をやめたから、体の調子も良いんだ。美菜ともゆっくり喋れるし、良いことづくめだな」
「篤彦さん、本当にありがとう。篤彦さんがいなかったらスタジオを持つことだってできなかったし、今毎日こんなに幸せなのも、篤彦さんのおかげだよ」
「おおげさだよ。感謝してくれるのは嬉しいけど」
篤彦は照れかくしにぶっきらぼうな口調でそう言うと、それでもこみ上げる嬉しさを隠せないのか、目尻にシワを寄せた。
このシワも、少し白髪混じりの髪も、筋っぽい手も、美菜は篤彦の何もかもが愛おしく、大好きだった。
意外に思われるが、交際の始まりも美菜からの猛アタック。篤彦は熱烈な愛情表現に終始タジタジだった。しまいには逆プロポーズを繰り返し、ようやく結婚までこぎつけたのだ。
― ずっとずっと、こんな幸せな日々が続きますように。
美菜はそう祈りながら、毎晩眠りにつく。傍に感じる篤彦の体温は、美菜を安心させた。しかし今日は目が冴えて、なかなか眠りにつくことができなかった。
「ねえ。篤彦さん」
「…ん?眠れないの?」
篤彦は眠そうな声で答えると、美菜の髪を撫でる。
「今日スタジオでお話しした生徒さんたち、結婚してるんだけど、子どもはいないんですって。仕事で活躍してて、すごく素敵な人たちなの。私よりずっと年上なんだけど」
「そうなんだ」
「私、ああやって仕事を持って、自分の時間を自分のために過ごして、夫婦2人で過ごすの、やっぱり憧れる」
「うん。わかってるよ。いつも言ってるよな」
美菜は、ベッドの中で、そっと篤彦の手を握った。
「篤彦さん。本当に子ども作らなくて良い?」
「うん。…こんなかわいい奥さんがいるんだ。これ以上ぜいたく言えないよ」
「それって、私が子どもみたいって意味?」
美菜がふざけて怒った振りをすると、篤彦は美菜の両手を包み込んで眠るように促した。
― 私、どうしちゃったんだろう。
それでも美菜の脳裏から、なぜか藍子と真琴の顔が離れない。子どもを持たない2人が、「子どものことを見るよ」と言ってくれたあの時の笑顔に、美菜は救われていた。
「篤彦さん。2人とも、とっても幸せそうでね…。子どもはいないけど、子どもは大好きなんですって。だから、他の生徒さんの子守まで買って出てくれたの。私も彼女たちと一緒。子どもは好き。だからね…」
「美菜。きっとその人たちだって、そう思えるようになるまで、乗り越えてきたことがあるかもしれない。実際口に出した言葉が100%本心かもわからないよ。憧れるのはいいけど、むやみに舞い上がって、余計なことを言わないか少し心配だよ」
ふと横を見ると、暗がりの中、篤彦はじっと美菜のことを見つめていた。
思い込みが激しく暴走しがちな美菜を思っての小言を、美菜はまるで反抗期の娘のように突っぱねてしまうことも多い。だが、今日は珍しく素直に受け入れる気になった。何も言い返さずじっと黙っている美菜の手を撫でながら篤彦は言う。
「美菜だって、自分は子どもを産まないって決めるまで、色々あっただろう」
「そうだね。人に聞かれたくない話がたくさんあるよ。…でも私は、篤彦さんに聞いてもらうことで解決した。…ねえ、また少し、聞いてもらってもいい?」
「もちろん。美菜の気がすむまで、好きなだけ喋ってくれよ」
「…私ね、やっぱり子どもを産んで育てることは、できない。それはね…」
美菜はそう言いながら瞳を閉じる。
耳の奥に流れるレッスン場のピアノの旋律が、いつまでも消えることはない。
子ども時代の自分の魂は、悲痛な声を上げ続ける。今こうして夫婦2人で、その思いを必死に受け止めていた。
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この記事へのコメント
「子供嫌いだからうちは作らないの」とサラって言ってる人に限って、実は病気を抱えていたり、辛い経験があって子供諦めたケースもあるから.....
「バレエ以外の全てを奪った」人らしいから根深い確執があるんだろうね