美菜の歳は、28歳。結婚してまだ1年の新婚だ。そして、子どもはいない。
ピラティスの勉強をし、スタジオを運営する中で様々な事情を持つ女性と出会って来た美菜には、美菜なりの思いがあった。
「私も、『お子さんもご一緒にどうぞ』って言いたいんですけど…ピラティススタジオって、その…色々お体の事情がある方も通っているので…」
美菜が言葉を選びながら言うと、藍子は一瞬ハッとした表情を見せた。そして、「私もその事情のある方の1人だわ」と言って少し寂しそうに微笑む。
それを見ていた真琴も、同じような曖昧な微笑みを浮かべて言った。
「たしかに…デリケートな問題ですよね。うちも、『子どもはまだ?』ってよく言われちゃいます」
美菜、真琴、藍子の3人は、少しの沈黙の間、控えめな視線を送り合う。
「みんながそれぞれの立場を思い合える世の中になれば良いわね」
藍子がそう言って話題の切り替えの合図を送ると、美菜と真琴も頷き、別の話題を探した。
「さ!そろそろレッスンの時間ですね」
美菜がパッと明るい笑顔を見せると、続々と生徒たちが美菜の周囲に集まってくる。
元バレエダンサーの美菜の、しなやかな体とポージングはとても美しい。ピラティスのインストラクターは元アスリートやダンサー出身者も少なくなく、美菜もその1人なのだ。
物心つく前からバレエの英才教育を受け、数々のコンクールで賞を取り、表舞台でも活躍してきた美菜は、人生の全てをバレエに捧げてきた。それが、バレエに夢中だったためなのか、それとも呪いじみた執念だったためなのかは、いまだに分からなかった。
ただ、生徒たちの前でピラティスの指導をしながらふと自分の足に目をやると、今でも胸がぎゅっと締め付けられる。
長年トウシューズで踊り続けていたため、足の形は変形し、爪はもはや原型をとどめていない。皮膚も変色しボロボロのままだ。
傷を負ったのは足だけではない。精神的にもかなりの不調をきたし、心も体も限界まで追い詰められたせいか、現役時代の最後の方は記憶がなかった。
― でも、そのおかげでピラティスに出会って、今の私がある。
過酷なダイエットでホルモンバランスは崩れ、身体中の骨も筋肉もとうに限界を超えて悲鳴をあげていた。そんな中、治療の一環として藁にもすがる思いで出会ったピラティスが、美菜の人生を変えたのだ。
― 幸せそうに見えても、みんな何かを抱えているんだ。ピラティスを通して、少しでも重い荷物を下ろす手伝いがしたい。
それが、美菜が24歳のときの決意だった。
プリマとして活躍していた美菜の早すぎる引退は、周囲からかなり惜しまれた。特に、美菜にバレエを与え、“バレエ以外の全てを奪った”母親は、ほとんど半狂乱だったと言える。
だからこそ必ず、この新しい世界でも成功してみせる。美菜はそう決意していた。
勉強を重ね、少しずつ実績を積み、無事にスタジオもオープンまでこぎつけた。ここまでは順調すぎるほどだ。
― これも、篤彦さんのおかげ…感謝しなくちゃ。
このスタジオの出資者であり、最大の理解者である篤彦は美菜の夫だ。
最終レッスンが終わるのは22時。そのあと片付けや事務処理を済ませて、スタッフ全員を見送ってから施錠する。全ての業務を終えてスタジオを出るのは、毎日23時を過ぎていた。
「これで、朝5時に起きて仕事に行く美菜の体力ってどうなってるんだ。ちょっとは体のこと気遣ってくれよ。またバレエ時代みたいに…」
「はいはい。わかってるよ」
「まったく、俺の気も知らずに…。俺は美菜の体を心配して…」
「もう、親みたいなこと言わないで」
美菜が甘えた調子で言うと、運転席でハンドルを握る篤彦は苦笑いした。
「実際、お父さんですか?って聞かれちゃうしな」
この記事へのコメント
「子供嫌いだからうちは作らないの」とサラって言ってる人に限って、実は病気を抱えていたり、辛い経験があって子供諦めたケースもあるから.....
「バレエ以外の全てを奪った」人らしいから根深い確執があるんだろうね