大好きなものは、みんなここにある
ー半年後ー
冷え込んだホームが、人混みで徐々に暖まっていくような、3月最後の日の朝。
「気を付けてね」
私、待ってるよ、という言葉を飲み込んだ。待っているのは戻って来る誠か、自分の心変わりか、わからなかったから。
私が東京に戻ってから半年後の春。やはり誠は大阪支店に呼ばれた。
「貴美子こそ、頑張り過ぎるなよ。それと…」
誠が紙を渡す。
畳まれたメモ用紙をそっと開くと、大阪の繁華街近く、大阪支店のすぐ近くらしいマンションの住所が書いてあった。
戸惑いながら顔をあげたとき、誠の並んだ列は動きだし、新幹線の中へ吸収されていった。
もう言葉を交わせない。
小さく手を振った誠を乗せ、新幹線は東京駅から滑り出して行った。
私は結局、この地に残ることを選んだ。
あの時の、日香里の言葉。
「東京にいる限り、これ以上の暮らしって、ないんだよね。便利で、刺激的で、友達も恋人もみんな、ここにいて。今、この瞬間、はね。
ただ家族や幼馴染、自分のルーツは、ここにはない。名古屋の両親に帰って来いってせっつかれると、切なくなるの。二重国籍の子みたいに、いつかはどちらかの土地を選ばなきゃ、ってね。
貴美子みたいに、恋人も、仕事も、実家も、友達も、全部が東京にある人は、恵まれてると思うなあ。単純にうらやましいよ」
そう、やっと大事なものが全部詰まったこの場所に、帰って来れた。
誠のことは大好きだ。でも、もし誠の…転勤族の妻になったら…?
突然言い渡される引っ越し、その土地に慣れた頃にまた引っ越し、何より仕事をしないでいる日中の時間、東京で老いてゆく両親を想い、そういうちょっとした悩みをみんなとタイムリーに共有できない日々――。
いつまでも、その土地のアウトサイダー。
誠と東京。天秤にかけてどっちが大事なんて、到底決められない。けれどまだ、ここにいたい。それが本心。
誠には、「仕事をもっと頑張りたいから」と伝えた。嘘ではないにせよ、そんなの100%本音じゃない。
ーこの地を離れて何者でもなくなる自分が、怖いだけ。
ー手放す物の数を数えて、怖くなっただけ。
こんながんじがらめになっている自分が、果たして日香里が言うように「幸せ」なのか、100%の自信はなかった。
丸の内のビル街が日々姿を変えているように、私の心も変わるかも、しれない。
ただ、この瞬間の私には、「全てが揃った東京」より欲しいものはないのだ。誠がいなくても完結するかは、わからないけれど。
気が付くと、丸の内の東京駅舎前に来ていた。工事の終わったこの広場のように、見通しの良い未来があったら。
見慣れたはずの皇居の茂みのささやきが、今朝はやたらに沁み入った。
「さてと」
呟き、目尻の涙を拭う。
ボーナスで買ったセルジオ・ロッシのヒールの足元が少し寒々しく思えたのは、まだ3月だから、だけではないかどうかも、私には判らなかった。
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いまや立派な東京妻・春奈の場合
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この記事へのコメント
2、3年毎に引っ越してしまうので「故郷」とか「地元」って感覚がない。生まれたところに初めて住んだのは「転校が難しいから」と祖父母に預けられた高校生でした。そういや入学式と卒業式を同じ学校で迎えたのがすごい新鮮でした。
で、大学進学でまた別の土地へ。就職はまた全然よそへ。おかげさまで「どこに行っても生きていける」自信だけはついてました...続きを見るから、生まれ育った土地を離れて暮らす同級生が「怖い」と言うようなことはなかったし、いく先々に友達がいるというのは嬉しいです。でもどうしたって疎遠になるし、小学生の頃の友達はもはや名前も顔も覚えていませんから、保育園から幼稚園から一緒の幼馴染みなんていうのはちょっと羨ましいです。