有馬紅子 Vol.1

有馬紅子:夫が若い女と突然の失踪。社会経験ほぼゼロの女が直面した、過酷な現実

深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。

それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。

だが、有閑マダムへまっしぐらだったはずの女が、ある日を境に全てを失う。

「社会経験、ほぼゼロ」。有閑マダムのレールから強制的に外された女・有馬紅子のどん底からの這い上がり人生に迫る。


「紅子(べにこ)さま、おはようございます」

「おはよう、西条さん。朝食はテラスで頂くわ」

寝起きのシルクガウンを着たまま、私は、執事の西条さんにそう指示をすると、そのままテラスに出た。

扉を開けた瞬間、ジリジリとした夏の熱気と、濃い緑の香りがする。

夫の実家の持ち物であるこの洋館の中でも、広い庭を一望できるこのテラスが、私はとても好きだった。

ここが都心だと忘れてしまう程、都会の音がほとんど聞こえてこない、広い、広い庭。樹齢200年以上ともいわれる大きな楠の木が落とす影の下で、庭師たちが作業をしているのが見えた。

洋館と言っても改築を重ねているので、テラスにはウッドデッキが張り巡らされ、結婚後、私好みの椅子やテーブル、そしてパラソルを配置させてもらった。

私が座ろうとした絶妙なタイミングで、西条さんが、椅子を引いてくれる。

「ありがとう」

西条さんは、夫の実家である月城(つきしろ)家に長く仕える初老の執事。月城家の次男である夫と結婚したときに、この新居についてきた。

最初の挨拶をしたとき「貴秋(たかあき)おぼっちゃまの奥様」と呼ばれた、そのひどく不自由な響きが気にいらず、西条さんにこう提案した。

「奥様、って何かイヤ。紅子って、名前で呼んでもらえない?」

それ以来、西条さんも、他の使用人たちも、「紅子さま」と呼んでくれるようになったのだけれど、それがもう17年前の話。

私は、つい最近40歳になった。

貴秋さんが、船を貸切り開いてくれた誕生日パーティのことを思い出しながら…ふと、気がついた。

―貴秋さんはどこ?

彼は私より必ず先に起きるし、私が2階の寝室から降りてくる頃には、毎日決まって、新聞を読みながら紅茶を飲んでいるのに。

『紅(べに)、おはよう』と微笑む、彼のあの穏やかな声を、今朝はまだ聞いていない。

「貴秋さんは、お出かけ?」

私のために、朝食を運んできた西条さんに声をかけると、彼の手元が狂い、紅茶のカップがガチャン、と音を立てた。

「西条さん?」

私が聞き返すと、彼は神妙な顔でスーツの胸ポケットから封筒を取り出し、私に差し出した。怪訝に思いながらも受け取ると…彼が言った。

「貴秋さまは、家を出て行かれたようです。今朝、ダイニングテーブルに、私宛てのものと、紅子さま宛ての手紙が…2通、置いてありました。」

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