2018.07.15
有馬紅子 Vol.1深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。
それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。
だが、有閑マダムへまっしぐらだったはずの女が、ある日を境に全てを失う。
「社会経験、ほぼゼロ」。有閑マダムのレールから強制的に外された女・有馬紅子のどん底からの這い上がり人生に迫る。
「紅子(べにこ)さま、おはようございます」
「おはよう、西条さん。朝食はテラスで頂くわ」
寝起きのシルクガウンを着たまま、私は、執事の西条さんにそう指示をすると、そのままテラスに出た。
扉を開けた瞬間、ジリジリとした夏の熱気と、濃い緑の香りがする。
夫の実家の持ち物であるこの洋館の中でも、広い庭を一望できるこのテラスが、私はとても好きだった。
ここが都心だと忘れてしまう程、都会の音がほとんど聞こえてこない、広い、広い庭。樹齢200年以上ともいわれる大きな楠の木が落とす影の下で、庭師たちが作業をしているのが見えた。
洋館と言っても改築を重ねているので、テラスにはウッドデッキが張り巡らされ、結婚後、私好みの椅子やテーブル、そしてパラソルを配置させてもらった。
私が座ろうとした絶妙なタイミングで、西条さんが、椅子を引いてくれる。
「ありがとう」
西条さんは、夫の実家である月城(つきしろ)家に長く仕える初老の執事。月城家の次男である夫と結婚したときに、この新居についてきた。
最初の挨拶をしたとき「貴秋(たかあき)おぼっちゃまの奥様」と呼ばれた、そのひどく不自由な響きが気にいらず、西条さんにこう提案した。
「奥様、って何かイヤ。紅子って、名前で呼んでもらえない?」
それ以来、西条さんも、他の使用人たちも、「紅子さま」と呼んでくれるようになったのだけれど、それがもう17年前の話。
私は、つい最近40歳になった。
貴秋さんが、船を貸切り開いてくれた誕生日パーティのことを思い出しながら…ふと、気がついた。
―貴秋さんはどこ?
彼は私より必ず先に起きるし、私が2階の寝室から降りてくる頃には、毎日決まって、新聞を読みながら紅茶を飲んでいるのに。
『紅(べに)、おはよう』と微笑む、彼のあの穏やかな声を、今朝はまだ聞いていない。
「貴秋さんは、お出かけ?」
私のために、朝食を運んできた西条さんに声をかけると、彼の手元が狂い、紅茶のカップがガチャン、と音を立てた。
「西条さん?」
私が聞き返すと、彼は神妙な顔でスーツの胸ポケットから封筒を取り出し、私に差し出した。怪訝に思いながらも受け取ると…彼が言った。
「貴秋さまは、家を出て行かれたようです。今朝、ダイニングテーブルに、私宛てのものと、紅子さま宛ての手紙が…2通、置いてありました。」
それで職務経験ほぼなし、とはフリが効いてる。笑
でも全てを失ったの可哀想。
恋に走った旦那はなにも残してくれないの?
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