
有馬紅子:夫が若い女と突然の失踪。社会経験ほぼゼロの女が直面した、過酷な現実
「家を出たって…どなたかとお約束でも?」
貴秋さんはいくつかの会社の役員をしているけれど、働きに出ることはほとんどない。
趣味の乗馬やゴルフ、書のおけいこに出かけたり、誰かと約束をしているときは、必ず前日に言ってくれるのに。
西条さんは私の質問には答えず、おそらく詳しいことはその手紙に…と言うと、私をテラスに1人残して、部屋の中に入ってしまった。
私は、『紅さま』と書かれた封筒の口を破る。
5歳年上の貴秋さんとは幼馴染みで、彼は小さい頃から私のことを紅(べに)ちゃんと呼んでいた。いつしか当たり前のように「紅(べに)」と呼び捨てに変わったのだけれど、それがいつからだったか、もう覚えていない。
彼が大切な人に贈るときに使う、彼のイニシャル入りの、オーダーメイドの便箋。私は几帳面に3つに折りたたまれた、触り心地の良い紙を開いた。
ーえっ?
『親愛なる紅さま。
僕は、どうやら、恋というものを知ってしまったようです。』
書家の先生にも絶賛されるほどの、おおらかで達筆な筆跡は、貴秋さんのもので間違いない…けれど。
内容がよく呑み込めないまま、私は藍色のインクの文字を追った。
『僕は、生まれたばかりの紅を初めて見た時から、紅のことを、とても愛おしく、大切に思ってきました。今この手紙を書いている、この瞬間でさえ、僕がそう思っていることを、紅は信じてくれるよね?』
私と貴秋さんの結婚は、私が女の子だとわかった瞬間に、親同士が決めたらしい。物心ついた時から両親に、紅子は貴秋くんと結婚するんだよ、と言われて育ってきたし、それを不満に思ったこともなかった。
「貴ちゃん」はいつも、優しくてかっこいいお兄ちゃんだったし、この手紙に書かれているように、彼が私を大切にしてくれていることは、十分過ぎるほど感じてきた。
自分が彼の、唯一無二の存在であることを、今この瞬間まで疑ったことはなかったけれど、どうやらこの手紙は私に、そうではないということを告げようとしている。
『でも、そんな紅に対する優しい気持ちとは、全く違う、まるで嵐のような、激しく焦がれる感情を知ってしまった。僕の人生に彼女が現れて、多分、僕は生涯はじめての恋に落ちた。どうか僕を許してほしい。』
―生涯、「はじめての」恋?
この記事へのコメント
一条ゆかり先生っぽい。
それで職務経験ほぼなし、とはフリが効いてる。笑
でも全てを失ったの可哀想。
恋に走った旦那はなにも残してくれないの?