
有馬紅子:夫が若い女と突然の失踪。社会経験ほぼゼロの女が直面した、過酷な現実
許してほしいと書かれているのに、その文字が浮かれ、踊っているように見えるのはなぜだろう。
『45歳のおじさんが何を言ってるの、って紅は笑うかな。でも、僕はこの恋に真剣なんだ。だから、家を出て行きます。』
いつまでも少年のように無邪気な貴秋さん。人を疑うことを全く知らず、自分の感情にも素直な人。友人達に「お公家さま」とからかわれる程、浮世離れした彼。
ゲーテやニーチェ、シェイクスピア。ヨーロッパの作家たちの恋の詩を暗唱して聞かせてくれるような、ロマンチックで純粋なところが大好きだったけれど。
ー貴秋さん。悪びれないにも、程があるわよ。
蝉の鳴く音が、まるで脳に直接響いているかのように、急に大きく聞こえはじめた。耳障りで顔をしかめると、水滴で文字が滲んで、自分の汗が手紙に落ちたことに気がつく。
滲んだのは、はじめての「恋」という文字だった。
私は、思わず声を上げて笑い出してしまった。人は驚きすぎると、頭が急激に冷えていくものなのだ、とはじめて知った。
「紅子さま…大丈夫ですか?」
私の様子を中からずっと見ていたのだろう。いつの間にか側に戻ってきていた西条さんに声をかけられ、私は我に返った。
「ええ。大丈夫よ」
どうやら、貴秋さんは家出したらしいが、ここで取り乱すわけにはいかない。彼のお相手がどんな女性なのか、彼がどこに行ったのか、確かめなければ。
「西条さん宛てのお手紙には、何て書いてあったの?」
さっき、手紙は2通あったと、西条さんは言った。
「…紅子さまは、ご覧にならない方が良いかと」
「西条。今すぐ手紙を出しなさい」
口調を変えて凄んだ私に観念したかのように、西条さんは自分の胸ポケットから封筒を取り出し、私に差し出す。
封筒の中から手紙を取り出そうとして、自分の手が震えていることに気がついたけれど、西条さんに気づかれないように、私は自分を奮い立たせる。
―私がこんなことに負けるわけ、ない。
私の名前は「紅子(べにこ)」 。
名前の由来は、宝石の女王・深紅のルビー。鮮やかに華やかに輝く子に、と両親がつけてくれた名前。
日本では古来から「紅玉」と呼ばれてきたその石は、富の象徴であっただけではなく、世界中で、戦いに勝つためのお守りにされてきた石でもある、と父が教えてくれた。
「燃えたぎる炎。ルビーは戦士の宝石でもあるんだよ」
紅子には、ただ守られるだけのお姫様になって欲しくはない。父のその思い通りに私は育った。
親に勧められた結婚だったとはいえ、嫌だったら絶対にしていない。貴秋さんを選んだのは私だ。これから先だって、自分の人生は自分で決める。
私にもプライドがあります。両親がつけてくれた「紅子」の名に恥じる生き方はいたしません。
◆
「有馬紅子さん、40歳…ですか。失礼ですがその年齢で、ほぼ職務経験がないとなると、弊社の仕事は、かなりハードになるかと…」
私の履歴書を見ながら渋い顔になった、おそらく私より5歳は若いであろう男性は、そう言って私の顔色を伺うような仕草を見せた。
ヨーロッパに本社を置き、300年近くの歴史を持つ、クリスタルブランド。その広報職としての面接のはずだけれど、おそらくこの目の前の男性にとっては、上司に押し付けられた面倒くさい仕事なのだろう。
私の方から断って欲しい、という気持ちが透けて見えているけれど、あいにく、その気は無い。
父の友人を頼って就職先を探しはじめて、ここのブランドはどうか、と言われた時、是非と返事をした。グラスや花器はもちろん、シャンデリアでさえも、ここの商品を愛用してきた私はいわば、上顧客。
「確かに、わたくしは大学卒業後すぐに結婚しましたから、社会経験は1年しかございません。ですが、御社の製品には幼い頃から触れてまいりましたので、きっとお勤めの皆さんの誰より…詳しくご説明ができますわ」
ゆったりと微笑んで見せると、目の前の男性が引きつった笑顔のまま、上司に相談してご連絡します、と小さな声で言い、退出を促された。
廊下を歩きエレベーターに乗り込むと、携帯を取り出す。無意識にある番号を押そうとしていた自分に気がつき、私は虚しくなった。
―もう、運転手はいないんだった…。
いつまでも抜けないクセに、私は苦笑いしてしまう。2ヶ月前、貴秋さんが家を出たことがきっかけで、私は全てを失った。
寂しさと虚しさに、気持ちがさらわれそうになったけれど、エレベーターのドアが開いたことに救われ、私は顔をあげて歩き出した。
ビルの外に出た瞬間、強い光に目がくらむ。慌ててバッグの中からサングラスを取り出すと、中国語や韓国語が飛び交う表参道を、地下鉄の駅に向かう。
携帯を見ながら歩いている人にぶつかられることが多いことも、この2ヶ月ではじめて知ったけれど、少しずつ慣れてきた。
ひどい状況には違いないけれど、何とか前に進もうとしている自分が、私は誇らしくもあった。
だけど、この時の私は、何もわかっていなかった。
全てを失った、40歳、女。
その市場価値と…人生の再スタートが、とてつもない茨の道になることを。
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40歳・女・再出発の最初の壁!そして留学先から戻ってきた息子が…。
この記事へのコメント
一条ゆかり先生っぽい。
それで職務経験ほぼなし、とはフリが効いてる。笑
でも全てを失ったの可哀想。
恋に走った旦那はなにも残してくれないの?