SPECIAL TALK Vol.9

~ANAに脈々と流れるDNA。リスクをとって常にチャレンジをしていくこと~

ANA入社、国際化実現に向けて多いに健闘する

金丸:1979年にANAに入社されました。同期は何名ほどいらっしゃったのですか?

片野坂:募集要項には60名と書いてありましたが、内定式には100名ほどいて、「なんで、こんなに大勢いるんだろう」と思いました。ちょうど高度経済成長期で、最初のジャンボ機を導入しようとしていた時期だったので、他の期よりも多く採用したようです。

金丸:100名の同期が、技術系と事務系に二分されるのですか?

片野坂:いえ、事務系だけで100名ぐらいいました。

金丸:それは多いですね。その後、どのようなキャリアを積まれてきたのでしょうか?

片野坂:最初は大阪支店でした。住んだこともない大阪です。空港勤務と梅田の支店勤務があり、私は梅田支店の総務に配属されました。

金丸:初任地が大阪だったのですね。地縁のない場所で働くというのは、抵抗があったのではないですか?

片野坂:それよりも、総務という仕事があまり肌に合わず、数年後に営業部に異動しました。

金丸:航空会社の営業とは、どのような仕事をするのですか?

片野坂:メインは航空券の販売です。混雑時期のチケットの調整ですとか、100名を超えるような大口のお客様の席の確保などを行っていました。結局5年ほど関西にいたのですが、最後のほうは関西弁が恋しくなるほど馴染みましたね。大阪の次は、東京本社の経営企画部の配属になりました。その当時、ANAは国際線の枠がなかったので、なんとか国際線の路線を確保しようと、みな必死で戦っていました。国際線は日本航空のみという一社体制が敷かれていた時代の、まさに真っただ中の職場に、私はいました。

金丸:当時は若狭社長でしょうか。

片野坂:そうです。その頃、ANAは国内線のシェアがほぼ50%で、国内は安泰でした。だから、社内には「国際線に出る必要はないんじゃないか?」という声も正直ありましたが、国際部の先輩たちは、国際線を獲ろうと精力的に活動を続けていました。私もその部署にいて、「まずは貨物から」ということで、日本貨物航空がアメリカに出るために尽力しました。まさに、先輩たちの突破力とエネルギーを日々、目の当たりにしていました。

金丸:やはり、まずは貨物からですか。そうして1986年に、実現にこぎ着けたわけですね。

片野坂:45/47体制(※2)が緩和され、私たちもようやく国際線に参入することができました。しかし、参入したもののどこの国に飛んだらいいのかわからず、社内でいろいろ議論しましたね。そうして最初はグアムとロサンジェルス、次にワシントンに就航しました。アメリカの首都なのに、飛んでいないのはおかしいという理由で。一方、JALは国内線を拡充しようと、同じ時期に東京―鹿児島間の便をスタートさせました。

金丸:当時の騒ぎようはスゴかったですよね。

片野坂:そこから、同一路線を3社が運航するトリプルトラックになったりして、空の自由化が始まっていきました。

金丸:東京―鹿児島の路線は、ドル箱でしたからね。

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