SPECIAL TALK Vol.105

~現役復帰した今だからできることがある元オリンピアンとして伝えたいスポーツの力~


中学に進学した後も選手として順調に成長


金丸:ちなみに競泳はどうだったんですか?

小谷:正直、選手として大会に出られるレベルではありませんでした。

金丸:では、シンクロ向きだったと?

小谷:性格も合っていたと思います。競泳だと、見える景色はプールの底か天井だけ。でもシンクロは上下左右、いろいろな景色が見られます。

金丸:まあ、退屈だと感じたら、幼稚園の時のように脱走していたかもしれないですね(笑)。しかし、地上で踊るのと違って、水中では呼吸ができません。見るぶんには美しいけれど、やっている側としては大変でしょう。

小谷:それはそれは大変です(笑)。

金丸:小谷さんは、どれくらいの肺活量なんですか?

小谷:当時は、4,500㏄くらいでした。女性の平均が2,500㏄ですから2倍弱ですが、競泳選手には5,000㏄に届くような人もいます。

金丸:意外ですね。あれだけ水中で演技をするので、てっきり競泳選手以上の肺活量なのかと。

小谷:大事なのは、肺活量以上に根性なのかもしれません(笑)。

金丸:しかし、始めてすぐに大会で優勝って、すごいですよね。

小谷:優勝といっても、「10歳以下」の部ですから。当時はシンクロが日本で競技化されたばかりで日が浅く、大会も整備している途中でした。もともと日本選手権は行われていましたが、それに加えて年齢別の大会が始まり、私が出場したのも初めて開催された年齢別大会だったんです。

金丸:では、タイミングが良かったと。

小谷:私、タイミングには恵まれているんですよ。大会初出場もそうですが、シンクロがオリンピック競技になったのも、私が競技者として成熟するタイミングと合っていました。

金丸:小谷さんが活躍される前、日本のシンクロはどのような立ち位置だったのですか?

小谷:強かったですよ。世界選手権ではいつも銅メダルを取っていました。だから「オリンピック競技になったら、絶対にメダルを取れる」といわれていましたね。

金丸:実際に、オリンピックでは表彰台の常連になりましたよね。

小谷:私が出場したのはソウル大会ですが、種目として採用されたのはひとつ前のロサンゼルス大会からです。そのときも本間三和子さんがソロ、木村さえ子さんとのデュエットで、それぞれ銅メダルを獲得されました。

金丸:そこに小谷さんも並ぶわけですが、最初に出場した大会で優勝された後は、どのような道を?

小谷:小学校の時は、あくまでも趣味として週に1、2回通う程度でしたが、中学に上がる時に、将来は選手を目指したい、と思うようになりました。学校帰りに練習に行って、試合が近くなると朝練もやって、ぬれた髪のままで学校に行くような生活を送っていましたね。

金丸:何を目標にされていたんですか?「年齢別を次々優勝していこう」とか?

小谷:そうですね。優勝したことで、いろいろな関係者の方が期待してくださって、「あなたがいずれ日本選手権でチャンピオンになるのを待ってるわよ」って、普通に声をかけられるようになりました。だから、「自分はいつか優勝できるんだろう」と、なんとなく思っていましたね。

金丸:すごい自信ですね。

小谷:ですよね(笑)。そして、中学3年生の時に初めてジュニアの代表になり、国際大会に。

金丸:そこでも優勝?

小谷:いや、3位でした。

金丸:国際大会で3位なら、十分立派です。

小谷:それはそうなんですけど、私としては悔しくて。「トップを目指したい」と強く思うようになり、1年間、留学することを決意しました。

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