1人の男性が、慌てた様子でハネダさんのもとへやってきた。
その手には、麻衣子のスーツケースが携えられている。
「それ!私のですっ」
すかさず声をあげると、彼女は落ち着いた様子で双方のバゲージクレームタグを確認する。
「では、それぞれのスーツケースをお確かめください」
ハネダさんに促され、麻衣子は久しぶりに対面したスーツケースに手を伸ばしかける。
「あ、ちょっと待って!よかったら、これ使ってください」
男性は、鞄の中からミニサイズのアルコールスプレーを取り出すと、ティッシュと一緒に渡してきた。
「本当にすみませんでした。仕事の電話をしていたら、スーツケースを取り違えてしまったみたいで…」
仕立てのよさそうなネイビーのスーツを着た男性だ。キリッとした眉と涼しげな目元が、目を引く。
― 私と同じ30代前半に見える。ちょっとタイプだな。…ん?待って、この人どこかで。
彼の顔に見覚えがあることに、麻衣子は気がついた。
見覚えはあるが、どうしても思い出せない。
麻衣子は、とりあえず男性からティッシュを受け取る。
アルコールスプレーをティッシュに吹きかけ、スーツケースのキャリーバーをササッとぬぐった。
― これでいいかな。
麻衣子は考え事をしながら、かがめていた体を起こす。その途端、鞄の肩ひもがズレた。手帳やパスポート、無数の紙が床にこぼれ落ちる。
「大丈夫ですか?」
真っ先に拾い上げたのは、ハネダさんだ。例の男性も一緒に、大量に散らばった紙に手を伸ばす。
そのとき、2人の動きがピタリと止まった。
ターンテーブルの脇に散らばったのは、色鮮やかな花々の写真。無機質な床が、一瞬にして花畑に変わった。
ハネダさんと男性、2人はその写真を見つめる。
「へえ…素敵なフラワーアレンジメントですね」
うっとりとした様子で、ハネダさんがつぶやく。
「本当ですか?嬉しい…実はそれ、私が作った作品なんです」
麻衣子は、耳たぶがポッと熱くなるのを感じた。これまで作ったアレンジメントの中でも、特に自慢の作品を褒められたからだ。
「こんなに素敵な作品を作ることができるだなんて、尊敬します」
「ありがとうございます。実は私、1年間イギリスにフラワーアレンジメント留学をしていて。今日、帰ってきたんです」
そう言ったものの、麻衣子のモヤモヤはまだ晴れていない。
― 本当はあと半年。もしくは、3ヶ月でもいいからイギリスで学ぶべきだったかな…。
悔いの残る帰国だ。麻衣子の口からは、自虐的な言葉がついて出る。
「でも、本当にまだまだ。これから、仕事としてやっていけるかもわからないレベルなんです」
2人から写真を受け取ると、つい目線が下がってしまう。
「私は―」
すると、ハネダさんは、温かみのある声で続けた。
「私は、お客様の作品をほんの一瞬…それも写真で見ただけで、心が明るく、温かくなりました」
「…えっ?」
「まるで、イギリスの庭園にいるかのような清々しい気持ちにもなりました。いえ、今も。
たったこれだけの時間で人の心を動かすというのは、お客様が思っている以上にすごいことです。こんなご時世だからこそ、なおさらそう思います」
ハネダさんの言葉を聞いて、今度は麻衣子が、心を動かされるのを感じた。
◆
3人で税関を抜け、日の光が明るく差し込む到着ロビーへと向かう。
「では、気をつけてお帰りください」
ハネダさんは頭を下げると、業務に戻っていった。
「じゃあ、ここで」
男性に向かって、麻衣子がそう言いかけたとき―。
「思い出した!僕たち、ヒースローから仁川まで、通路を挟んで隣の席に座ってましたよね?」
「あっ!」
突如、麻衣子は思い出した。
― この人と、機内で一度だけ言葉を交わしたわ。
麻衣子がうっかり通路に落としてしまった花の画集を、彼が拾ってくれたのだった。
「帰りは、何も落とさないように気をつけてくださいね」
「はい。でも、驚きました。ずっと同じフライトだったんですね」
「ですね。僕、来週にはまた仕事でロンドンに戻ってしまうんですけど…もしスーツケースに何かあったら、連絡ください」
差し出された名刺を受け取り、目をやる。
― 商社…海外赴任なのかな。
どこか所在なげに帰国した自分とは違い、彼は自信に満ちているように見えた。
「それと、さっきの花の写真…すごくキレイでした」
「…ありがとうございます。えっと…、もうちょっと頑張ってみようかなって思えました」
「僕もです。何だか大変な世の中になってしまったけど、同じ時期に同じように海外で踏ん張っている人がいたんだと思うと、励みになりました。お花、頑張ってください」
― 彼も…大変だったんだ。私、自分1人だけが孤独だと思ってた…。
彼の言葉に、背筋がシャンと伸びる。
麻衣子は、到着ロビーを出て、新宿方面行きのリムジンバスに乗り込んだ。
― 本当に長い旅だった…。
そのわりには、さきほどまで感じていた疲れが、どこか軽くなっている気がする。
スマホを鞄にソッとしまい、2人から褒められた写真をながめた。
近いうちに、ふたたびロンドンで暮らそう。
そのためにまずは、日本のフラワーショップに就職して、経験を積もう。
アレンジメント専用のSNSのアカウントを作って、たくさんの人に作品を見てもらうのもいい。
麻衣子は晴れやかな気持ちで、これからのことを思い描いた。
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この記事へのコメント
でも、アラサーで仕事辞めて自分の貯金使って留学したのはたいしたものだなと思った。インスタ映えのために男からお金もらってヨガ留学するより全然いいよ。
今日の話はいまひとつだったけど。