中央区・日本橋人形町に住む、明確な理由
由紀子は、人形町を居住地として選んだことには、明確な理由があった。
それは3つ。
1つ目は、セレブ産院御三家の1つである聖路加国際病院が区内にあること。
聖路加は会社のある丸の内からのアクセスもよく、病室はすべて個室で、LDRも備えており「子どもを産むなら絶対に聖路加!」と決めていたのだ。
2つ目は、地域の小学校の教育レベルが高いこと。
付近にはいくつかの小学校があるが、なかでも人形町駅から徒歩5分の久松小学校は、銀座の泰明小学校と並んで中央区の名門小学校と言われる。
しかも他の中央区の小学校と同様に久松小学校にも制服がある。まるで子どもを私立小に通わせているような気分も味わえるのも、由紀子のお気に入りだった。
そして最後は「サピ」、SAPIX東京校があること。
SAPIXは、言わずも知れた難関中学受験を対象とした名門塾で、毎年多くの小学生を御三家はじめ難関中学に合格させている。その中でも東京校は、合格実績が高いのはもちろんのこと、模試や各種説明会が実施される、SAPIXの中心となる拠点だ。
中学受験に際して、裕太が電車に乗ることなく徒歩で通塾できるのは、人形町に住む大きなメリットだと考えたのだった。
裕太を出産後、地域の保育園に通わせながら復職を果たした由紀子は、社内でも順調なキャリアを築いていた。
裕太が卒園後、久松小学校に入学すると、4年生からはSAPIXに通わせた。
ここまでは、由紀子の想定通りにすべてが進んでいた。
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夫婦そろってそれなりの学歴だし、子どもの裕太も勉強が苦手なはずはない。
通塾し始めた当初こそ、裕太が御三家かそれ相応の中学を受験するレベルに達するのは当然だと、由紀子は考えていた。
しかし…由紀子の予想は、少しずつ狂い始める。
4年生から通塾する裕太の成績は、2年の間に向上する様子がまったく見られなかったのだ。
御三家を受験するのであれば、SAPIXの1番上のクラスである「αクラス」に在籍していることは必須条件だ。しかし、αクラスの中でもさらにレベル分けがあり、裕太はαクラスの下の方でいまにもEクラスに落ちるところに位置していた。
クラス担任の講師との面談では、こうも言われてしまう始末だ。
「裕太さんは、何とかαクラスで粘っていらっしゃいますが、現状の成績からすると御三家はかなり難しいと言わざるを得ません。2月1日の受験も、別の学校をご検討されてはいかがでしょうか」
由紀子自身、中学、大学での受験戦争を生き抜いてきた。それゆえ、偏差値という客観的な数字を目の前に、現実の厳しさを思い知らされる。
― このままでは、裕太が御三家に行くのは厳しいわ…。何とかしなければ。
焦る由紀子は、裕太にこう提案するのだった。
「ねぇ、裕太。サピの先生と面談したんだけど、裕太は算数が少し苦手だから、家に家庭教師の先生に来てもらおうかなと思うんだけど」
「うん…」
できるだけ優しく提案したつもりだったが、裕太の反応はイマイチ。その反応の鈍さが、由紀子をさらにいら立たせてしまう。
本人にやる気がなければどうにもならない。だが由紀子としては、少しでもレベルの高い学校を目指すのは当然だし、サピや自分の言う通りに勉強すればいいだけなのに、と思ってしまう。
母子の間に流れる微妙な空気を、お互いが無視しながら迎えた翌週。
オフィスで仕事中の由紀子の携帯に、ある1本の電話がかかってきた。
…相手の声の主は、裕太のクラス担任の教師だった。
この記事へのコメント
息子の人生ではなく私の人生て。この考え方が最低。子供のことを全然思ってない。