「もしもし。裕太さんの担任の中村でございます」
「はい、中村先生。吉川裕太の母です。いつも息子がお世話になっております」
― 突然、何かしら…?
いぶかしく思いながら通り一遍の挨拶をしたところで、担任教師は言いにくそうにこう切り出した。
「あの…本日は私からご報告した方がよいと思ったことがございまして、お電話差し上げました。
お母さまがご存じかわからないのですが、今日、体育の授業でたまたま見てしまいまして。裕太さんの左腕に…」
小学校の担任教師がためらいながらも告げたのは、衝撃の事実だった。
裕太の左腕に、シャーペンなどで引っ搔いたと思われる自傷痕があるという。
担任教師は、恐る恐る話し続けた。
「お電話差し上げるのも迷ったのですが、気づいた以上はご家族にご連絡をと思いまして…。
裕太さん、最近少し元気がないと言いますか、心身の不安定さを抱えていらっしゃるのかもしれません。ご自宅でも、少し裕太さんのご様子を見ていただけないでしょうか?」
― 自傷痕って、そんな…。なんで、裕太が…?
息子の自傷痕があることなど、まったく気がつかなった。
電話を切った後も、オフィスの廊下で由紀子はぼう然として動けないでいた。
― どうやって裕太に問い正そう…。
そんなことばかりが、由紀子の頭の中を巡っていた。
◆
その日の夜。
「ねぇ、裕太。お母さん少しお話があるの。左の腕を見せてちょうだい」
早く解決したいという思いから、塾から帰宅した裕太にこう問う由紀子。
あまりに直球の質問で、裕太は明らかに面食らっていた。
「お母さんね、裕太が何に困っているのか知りたいの」
「別に…何も困っていないよ」
「今日、学校から電話があったのよ。中村先生、裕太の左腕に傷があるっておっしゃっていたわ」
「……」
由紀子がいくら質問しても、裕太は話そうとしない。
そして由紀子は、やっと気がついたのだった。
「息子は、すでに自分に心を閉ざしている」ということに。
◆
「俺が話してみるよ。明日の塾のお迎えは俺が行ってそのまま外で話すから。明日の夕飯は用意しなくていいよ」
その日の夜、由紀子の話を聞いた夫はこう言った。
翌日。
約束通り夫は裕太の迎えに行ってくれ、2人が帰宅したのは22時過ぎ。裕太の就寝後、夫は由紀子に裕太との話の報告をしてくれた。
「『サピの授業がどんどん難しくなっていて、ついていけなくてつらい』って。『正直、自分が中学受験をしたいのかもわからない。ましてや、本当に御三家に行きたいのかなんてもっとわからない』とも言っていたよ。
あとはまぁ『勉強のせいで友達と遊ぶ時間が減って、仲良くできなかったのもイヤだった』とも言っていたな。
最初は黙っていたけど、それなりに話してくれたよ。裕太には中学受験を目指すのは無理があったのかもな」
由紀子では聞けなかった話も、夫はうまく引き出してくれた。
どれも、よくある小学生の他愛のない悩みだ。しかし、そんなことすら裕太は由紀子に言わないようになっていたという現実に打ちのめされる。
そして、夫はひと言も妻である自分を責めなかったが、それがさらに由紀子を苦しめたのだった。ひとしきり話をして、風呂場に向かう夫の背中を見ながら、由紀子はリビングでただぼう然とする。
― 私、裕太のこと何もわかっていなかったんだな…。明日、どんな顔して、何て謝れば…。
由紀子自身が思っていた「自分が求めるものはすべて手に入れたい」という気持ちが、裕太を追い詰めていたのだ。
由紀子はまだ、どうすればいいのか自分のなかで決めきれていない。
しかし、これからは目の前にいるありのままの裕太ときちんと向き合って、母子関係の再構築をしなければならない…。
それだけを、固く心に誓った。
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この記事へのコメント
息子の人生ではなく私の人生て。この考え方が最低。子供のことを全然思ってない。