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引っ越しを聞かされてまもなく、優衣は思わぬ壁に直面した。
渋谷区役所へ保育園の相談に行ったところ、空きがないと言われてしまったのだ。
認可保育園の入園は基本4月。優衣たちが引っ越しするのは10月半ばだが、途中入園は空きがなければ認められない。
その日の夜、テレビを見ながらワインを飲んでいる夫に、現状を打ち明けた。
「渋谷区役所に問い合わせてみたんだけど、2歳児クラスは途中から入れる園がいまのところないみたいなの」
しかし夫は、顔も上げずに答えた。
「へえ、そうなんだ」
保育園に入れない場合のことなど、まったく気に留めていないようだ。
優衣は、夫の態度に若干の違和感を覚えつつも、いくつかの案を提示してみる。
「引っ越しを少し先延ばしするか、予定通り引っ越して保育園の空きが出るまでシッターさんをお願いするか。1~2ヶ月も待てば空くかもしれないし」
だが、雄二はソファに預けていた体を起こし、真顔でこう言ったのだ。
「ベビーシッターって毎日呼んだらいくらかかるの?それってもちろん、自分で払うんだよね?保育園がいつ空くかもわからないのに、もったいなくない?」
何も相談されず引っ越しを決められた側としては、黙って引き下がるわけにはいかない。優衣は強い口調で言い返す。
「だって、預けなくちゃ仕事に行けないじゃない!」
優衣が最後まで言い切らないうちに、夫は言葉を被せるように言い放った。
「絶対延期はしないよ。新築だから、くじ引きで引っ越しの日にちが決められてるし」
そして当然とでもいうかのように、夫は思わぬことを口にしたのだ。
「ていうか、お前が仕事やめればいいじゃん。金には困ってないんだし」
「えっ…」
優衣はその言葉に呆然とした。するとそれに気づいた雄二が、今度は取り繕うように言葉を足す。
「ごめん、俺、言いすぎたね。でもさ、優衣はいつも仕事に一生懸命で、ちょっとのんびりしたらどうかな、って前から思ってたんだよね」
雄二はいきなり父親然として、話を続ける。
「原宿は保育園通わせる人、少ないってさ。あのあたりの人はみんな私立の小学校受験を念頭に幼稚園に入れるらしい。うちもそうしたら?インターでもいい。将来英語に困らないようにしてあげるのも、親の務めなんじゃない?」
退職、幼稚園、原宿、インター…
今までの自分の生活には浮かんでこなかったワードが頭の中を飛び交う。
確かに雄斗は可愛い盛りで、できるだけ一緒に過ごした方がいいという気持ちはあるし、夫の稼ぎさえあれば生活にも困らないだろう。
何より優衣は、夫の傍若無人さと、一方的な怒りをぶつけられ、言い返す気力を失いつつあった。
自分の意思とは関係なく、生活も人生までもが決められていく不快感を鎮めようと、優衣は一点を見つめゆっくりと息を吐く。
すると、雄二が苛立ちながら声をあげる。
「ていうか、さっきから聞いてると、仕事仕事って言うけど…。俺が誰のためにあのマンション買ったと思ってんだよ?もっと喜んでくれると思ってたんだけどなぁ」
今まで見たことのなかった夫の一面を目の当たりにし、優衣は思わず言葉を失う。
― この人、前からこんな人だった?
マンション購入を機に、優衣は夫という人物がわからなくなっていた。
無鉄砲ながらも、大切なことは必ず相談してくれていた夫が、急に変わってしまったように思えたのだ。
こうして優衣はそれ以上の反論を諦め、しぶしぶ退職を了承したのだった。
このときはまだ、自分の自由になる収入がなくなるということが、どういうことなのかを予想していなかった。
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「え?足りないの?」夫の言葉に絶句する妻。自由になるお金が欲しい…。
この記事へのコメント
この夫、態度も言動も無理
優衣、頑張って逃げて‼️
しかしまた、コメント炎上しそうな連載だ。お金の話とモラハラが絡んでいるから。