「あっ、千秋さん~!」
こちらに気づき駆け寄ってくる雛乃ちゃんの、長い栗色の髪がふわふわと揺れる。小さくて華奢で、ちょこちょこした動きが子リスのように可愛らしい。
和やかな気持ちで見守っていると、私と健作の前に駆けつけた彼女は、炎天下の歩道橋の上でハアハアと息を切らして言った。
「千秋さん、さっきの資料やっと完成しました!お待たせしてしまってすみません。私も急いで、お昼買ってきていいですか?」
「もちろん!うちは仕事を進められてさえいれば、誰も文句言わない職場だよ。急がずゆっくり買ってきてね」
そう笑顔で答えながらも、ほんの少しだけ雛乃ちゃんの態度が引っかかる。…私の隣にいる健作には、全く目もくれないからだ。
彼女からしてみれば、面識のない健作は社外の人間かもしれないと思っているのだろう。下手に話しかけない方が無難だという判断をしたのかもしれない。
いい機会だと思った私は、雛乃ちゃんに健作のことを紹介しておこうと思った。
「雛乃ちゃん。こちら、アソシエイト部門の日比野健作さんです」
「…日比野さん、よろしくお願いいたします」
私の紹介を受けて、彼女がようやくペコリと頭を下げる。そしてニコッと笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「あの、お2人とってもお似合いですね。…千秋さんの彼氏、ですよね?」
うちは社内恋愛が禁止されているわけでもないので、私と健作の関係を隠す必要も特段ない。
私たちが婚約状態にあることはすでに周知の事実だったし、多少照れくさくはあったものの、正直に答えることにした。
「そうなの。本当だったら今年の12月に結婚する予定だったんだけど、今はこんな状況だから、ちょっと様子見。ね、健作?」
そう言って彼の方を振り向く。すると今度は、健作の方がモゾモゾと買ってきたばかりのカフェラテの紙袋を覗き込みながら、要領を得ない返事をするのだった。
「あ、うん。どうも日比野です。よろしく…」
またしても、違和感が私を襲う。確かに健作はシャイな方ではある。でも、日頃礼儀正しい彼が、こんなに人の目を見ないのはどう考えてもおかしかった。
― 健作も雛乃ちゃんも、なんだかいつもと違う…?
拭い去れない違和感がべったりと私の心に張り付くものの、これほどの炎天下だ。立ち尽くしていれば、挙動不審になってしまうのも仕方ないことのように思えてきた。
それくらい、意識が朦朧とするほどの日差しにあてられていた私は、ささいな違和感には目をつぶってこの場を切り上げることにする。
「じゃ、雛乃ちゃん。ランチの買い出しごゆっくり…」
と、言いかけたそのとき。コーヒーの紙袋を覗き込んでいた健作が、ぽつりとつぶやいた。
「あ、俺。ガムシロもらってくるの忘れた」
コーヒー好きを自称しながらも、甘くしなければカフェラテすら飲めない健作だ。しかし、今からこの炎天下の中をもう一度引き返すのは、できれば避けたいところだった。
「えー、もう。たまには甘くしないで飲みなよ」
私が冷たくそう言い放つと、額に汗を浮かべつつ、雛乃ちゃんがニコニコしながら言った。
「あ、良かったら…。私もコーヒー買いに行こうと思ってるので、日比野さんの分貰ってきますよ」
雛乃ちゃんて、なんて気配りができるいい子なんだろう。やっぱり、あの大学を出ている子は世渡り上手なのだろうか。
そう感じた、次の瞬間だった。
彼女の口から飛び出した言葉に…。私はついに、大きくなりすぎた違和感を無視できなくなってしまったのだ。
「1つじゃ足りないですよね?」
少しの沈黙が過ぎ去った後。
小さな、それでいて、確信めいた疑問が私の口からこぼれ出た。
「…なんで、知ってるの?」
私がそう言うのと同時に、今度は雛乃ちゃんの笑顔が凍りつく。
先ほどから何度も、何度も感じていた違和感。
こんなところで問いただすべきではないとわかっていたけれど、もう、どうしても止められなかった。
「健作がシロップ2つ使うって、雛乃ちゃんがなんで知ってるの?…ねえ。2人って、知り合いなの?」
頭上の太陽が、灼けつくように私たち3人を照らし続ける。
それでも私たちは、まるでここが極寒の地であるかのように、凍りついて一歩も動けないままでいた。
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この2人、何かある。そう確信した千秋は、2人に詰め寄り…?
この記事へのコメント
あと雛乃ちゃんの転職が元カレに再会するためじゃないといいなぁ。
ガムシロ1つじゃ足りないって分かってて、あえて聞くかな?ポロっと出る言葉じゃないよね。
千秋が絶賛するように気を遣える子なら、ガムシロいくつか持ってきて、いくつ使いますか?とか、多めに持ってきたので好きなだけ使ってくださいとか言えるよね。