2021.09.08
今はもう、なんでもないから Vol.1困ったような顔を浮かべる健作の腕で、Apple Watchの液晶画面が光っている。
画面には「2020年8月」と表示されている。
本当だったら、あと4ヶ月後にはホノルルのハレクラニで式を挙げるはずだったのに。世界はある日突然、あまりにも急激に変わってしまった。
出社率が3割に減ったオフィスでは、部署の違う健作とこんなふうに出社日が重なることもめったにない。
職場ですら人を集められないのに、来年に披露宴を、しかも海外で行うことなんて叶うのだろうか。
無期限延期になってしまったハワイ挙式のことを思うと、どうしてもため息が漏れ出てしまうのだった。
そんな私の様子を見た健作が、悲しそうにうつむきながらつぶやく。
「千秋さん、ごめんね。俺の両親が『入籍、同棲は親戚への披露宴が済んでから』なんて堅いことにこだわらなければ…」
その沈んだ声にハッとした私は、気を取り直して、わざとらしいくらいにおどけてみせる。
「ううん、全然大丈夫だよ!健作のご家族やご親戚にも祝福してもらいたいし。でも、あまりにもオバサンになっちゃいそうだったら、フォトウエディングで許してもらえないか聞いてみてね」
彼のご両親は、誰もが知る大企業の重役と専業主婦。今時ちょっと珍しいくらいに厳格な家庭なのだ。
でも、そんな家庭で育ったからこそ、健作はとても礼儀正しい。
今も出来上がったテイクアウトを、深々とお辞儀しながら受け取る彼を見て、私は思わず笑ってしまう。
関東有数の名門エスカレーター校に中学から通っていたこともあってか、少し頼りないところもあるけれど、誰よりも周囲への気遣いができるところがいい。
…と、そこまで考えて私は思い出した。
そして、どことなく盛り下がってしまった空気を改めるべく、明るい声で話題を変える。
「そういえばね、今日初めてリアルで会えたんだよ。立川雛乃さん!出身大学、健作と一緒だって言ってたよ。彼女のこと、知ってた?」
すると一瞬だけ、健作の表情が固まった気がした。
けれどすぐに、エレベーターの方へと向かいながら穏やかに返事をしてくれる。
「ああ…。そういえば千秋さん、はじめて後輩の教育係になったんだよね。今日、一緒に出社してるんだ?」
「うん!真面目で明るいし、とってもいい子だよ。オンラインでは何度もやり取りしてたんだけど、今日みたいに実際にオフィスで会えた方が、やっぱり親近感わくよね」
彼女は私の3歳下、健作より1歳下の28歳。つい先月、外資系IT企業から中途入社してきたばかりで、部署の先輩である私が教育係につくことになったのだ。
「今も、お昼一緒に買いに行く?って誘ったんだけど…。『どうしてもこの資料だけ終わらせたいから』って断られちゃったの。頑張り屋さんだよね。
同じ大学出身とはいえ、知らないかあ。今度、健作にも紹介したいな」
下りのエレベーターでも雛乃ちゃんを褒め続けていると、健作はなんとも言えない微妙な表情を浮かべる。
「千秋さんが教育係を楽しめてるならよかった。でも俺は、ランチの買い出しはこうして千秋さんと2人きりのほうが嬉しいかな」
そう言うと健作は、話題を終わらせるように再びマスクをずらす。次はキスでもするのかと思いきや、私の下唇にいたずらっぽく軽く噛みついた。
「もう!それやめてってば~!」
そんな私を見て、健作はケラケラと笑う。時々こうして下唇を噛んでくるのは、健作の定番のじゃれあいなのだった。
外へ出ると、8月の熱気が一気に押し寄せて気が遠くなりそうになる。ほど近い場所にあるオフィスまで、私たちは灼熱の太陽の下、短いデートを楽しんだ。
穏やかで平和で、幸福な時間。
こうしていると落ち着かない世の中の情勢も、無期延期になっている結婚式も遠い世界のことのようで、ふたりの間には何の心配もないように感じられる。
でも金王坂の歩道橋を渡り、もうすぐオフィスに到着するという、そのとき。
歩道橋の向こうから、見覚えのある人物がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
細身のパンツとシンプルなシャツに身を包んだ、可憐な印象の女の子。たった今話題に出ていたばかりの、立川雛乃ちゃんだ。
「あっ、雛乃ちゃーん!」
嬉しくなった私は、思わず彼女に向かって大きく手を振った。
あと雛乃ちゃんの転職が元カレに再会するためじゃないといいなぁ。
ガムシロ1つじゃ足りないって分かってて、あえて聞くかな?ポロっと出る言葉じゃないよね。
千秋が絶賛するように気を遣える子なら、ガムシロいくつか持ってきて、いくつ使いますか?とか、多めに持ってきたので好きなだけ使ってくださいとか言えるよね。
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