1994年7月
「じゃあ梨奈。ハチ公前は混むし、17時にパンテオン前で。何かあったらベルで呼んで」
「ちょっと待ってよ、お姉ちゃん」
姉は山手線のホームに私を降ろし、そのまま原宿へ向かうため電車で行ってしまった。
「とりあえず、ハチ公口に行けばいいのかな…?」
おそるおそる“ハチ公口方面”と書かれた看板を頼りにホームを歩く。だけど足取りは軽い。だって、もうすぐ憧れのあの街に会えるのだから。
私の名前は竹脇梨奈。国道246号線の終点、静岡県沼津市に住む14歳の中学生。
今日は3歳年上のお姉ちゃんがラフォーレのグランバザールに行くというので、無理を言って初めて東京に連れてきてもらったのだ。
バーゲンにも惹かれたけど、私はとにかく渋谷へ行きたかった。…CDショップやレコード店巡りをしたくて。
お小遣いは少ないから買い物はあまりできないけど、そこに集まるオシャレな人の空気に触れてみたい。ワクワクで胸をいっぱいにさせて、私はオリーブの特集号を片手にセンター街を歩く。
想像していたオシャレさとは少し違うけど、地元じゃ見たことのない種類の人がたくさんいた。
ピチピチTシャツとスパイラルパーマのお姉さんに、大きな襟のシャツを着た男の子。
― 吉川ひなのちゃんみたいに足が長い女の子って、この世に実在するんだ。
マックも沼津の仲見世にあるけど、センター街のそれはまるで高級店みたいで、なんだか入りづらい。
「ここが同じ道路でつながっているなんて、信じられない…」
周囲を見渡しながら、人ごみをかき分け立ち止まることなく進む。
目的地はまず、文化村通り沿いのHMV渋谷。
レコメンドコーナーで最新の音楽情報をゲットして、クラブのフライヤーをいくつかもらう。行くことはないけど、部屋の壁に貼ったり、下敷きに挟んだりするのだ。
次に宇田川町のレコード屋で、地元には売っていないインディーズのCDを買う。タワレコ、CISCO、ZEST…。雑誌の中でしか見られなかった空間がそこにあった。
プレーヤーは持っていないけど、マンハッタンで1枚、おしゃれなジャケットのレコードを買った。…もちろん袋目当てだ。
― 体操着入れにすると、みんな羨ましがるんだよね。
そんなこんなで公園通り周辺をウロウロしていたら、腕も足もクタクタだ。時刻はもう16時半を過ぎている。
お姉ちゃんとの約束は17時。確か「パンテオン前」と言っていた。
― ん?パンテオンって何!?
私はそのとき初めて気がついた。まるで聞いたこともない不思議なその名前に。ポケベルで呼び出そうにも、肝心の公衆電話が見つからない。
「どうしよう…」
未知の世界へのときめきは、不安と紙一重であるのだ。
雑誌に描いてあるシンプルなデザインの地図は、全く役に立たない。一瞬にして周りがアマゾンのジャングルのように見えてくる。
そんなときだった。
「これ、忘れてない?」
ダボっとしたストリートファッションに、深めの黒いニット帽をかぶった男子が私の肩を掴んでいた。
どうやら私は、マンハッタンに袋ごとレコードをおいてきてしまったらしい。同じ客として来ていた彼が、追いかけてきてくれたようだ。
「あ!はい、すみません…」
長い前髪の、大きく鋭い目をしたその男の子。同年代くらいなのに雰囲気から洗練されていて、見るからに東京に住む人に見えた。
私はレコードを受け取り、去ろうとする彼の腕を掴んで思わず叫んだ。
「ねぇ君。パンテオンって、知ってる!?」
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