【今こそ読みたい】日本の名だたる経営者達は、いかに苦境を乗り越えたか?66人インタビューの全てを掲載!

小林りん氏 インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢 代表理事

~本文内抜粋~
小林:父の昔からの口癖は「人生は一度しかないのだから、自由に生きた方がいい」です。

金丸:それは素晴らしい。逆にお母様はどのような方だったのですか?

小林:母は父とはまったく正反対の性格です。もともと福祉関係の仕事をやりたいという思いがあり、市役所ではソーシャルワーカーをしていました。週末はいつもボランティアに明け暮れていたので、私も小さい頃に旅行やレジャーに行った記憶はあまりありません。週末は点字教室とか車いす体験教室など、母のボランティアに帯同していた思い出ばかりです。

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大西 洋氏 三越伊勢丹ホールディングス代表取締役社長執行役員

金丸:そのような経緯で入社された方が、いま社長でいらっしゃるのは意外な気もします。

大西:結局、お客様と接するのが好きだということが根底にあるのだと思います。私は小さい頃から感受性が強く、特につらいときや苦しいときに人から何かしてもらうと、人一倍感謝しましたし、心を大きく動かされました。そういったことから、感動を知らないお客様に感動を与えられる仕事がしたいと思っていました。

金丸:つまり好きな道を選ばれたということですね。

大西:それは間違いないですね。

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杉本哲哉氏 株式会社グライダーアソシエイツ 代表取締役社長

金丸:映画を撮影していたとなると、その道で生きていこうという思いもあったのではないですか?

杉本:もちろん考えていました。映画の学校とか日芸とかに行きたかったんですよ。ぴあフィルムフェスティバルに出品して、雑誌に載ったこともあり、「映画の道で生きていけるかも」なんて思った矢先に、母を胃ガンで亡くしまして。私が高校2年生、母が41歳のときでした。発見が遅く、見つかってから6カ月ぐらいで逝ってしまいました。家族は男だけになったので、それから僕と弟で、家事を分担していました。

金丸:それは突然のことでしたね。高校2年生では、すべてを受け止めきれなかったのではないですか?

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片野坂真哉氏 ANAホールディングス株式会社 代表取締役社長

片野坂:ANAのほかに、当時日本一給料の高かった損保会社やテレビ局、ガス会社などを受けました。テレビ局は最終面接で、有名なプロデューサーの名前を言えず落ちてしまいましたが、複数の企業から内定をいただきました。その中でANAは雰囲気が良く、好印象でした。

金丸:当時は商社が人気で、非常に勢いがありましたよね。

片野坂:就職活動で様々な企業を訪問しましたが、エントリーするにも実際に会社へ足を運ばないといけなかったので、就職したい会社が自然と絞られましたね。逆にいまの学生は大変ですよね。インターネット経由でエントリーすればいいから、興味があればいくらでも出せてしまいますし。

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設楽洋氏 株式会社ビームス代表取締役

金丸:新宿のお生まれなんですね。

設楽:新宿の柏木と呼ばれていたエリアです。大久保と東中野の中間にある淀橋市場の近くでした。子どもの頃は午前中の競りが終わると、市場の中でよく遊んでいました。

金丸:当時、新宿の眺めというのは、どのような感じだったのですか?

設楽:富士山がクッキリと見えていましたよ。周囲はみんな貧乏でしたね。家の裏の原っぱに土管が積んであって、そこにゴザがかかっていて、浮浪者が住んでいました。新宿の大ガードの脇にも、浮浪者がたくさんいるような状況でした。そこから数年で大きく変化していくんです。

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