
~夢は6.5坪から始まった~
2020年のニューリーダーたちに告ぐ
1976年。たった6.5坪からスタートした「アメリカンライフショップ ビームス」。海外の情報が少なかった時代に、アメリカのライフスタイルを提案するというコンセプトを打ち出し、若者を中心に絶大な支持を集めた。
いまやその店舗規模は全国140店舗にも及ぶ。旬に凌駕されるファッション業界において、約40年も人びとに選ばれ続ける理由とは? 戦後に新宿で生まれ、日本の高度経済成長とともに育ってきた設楽社長の原点に迫り、その理由を紐解いていく。
次世代のリーダーを担う、東京GENTSたちヘ。時代を生き抜くヒントがココに。
金丸:本日はお忙しいところお越しいただき、ありがとうございます。
設楽:こちらこそ、よろしくお願いいたします。それにしても、看板もなくて本当に隠れ家的なお店ですね。
金丸:この『鮨 早川』は、私もよく利用させていただいています。早速ですが、この企画の趣旨はゲストの方の経歴をお聞きし、いまの若い世代に成功のヒントを掴んでもらうことです。まずは幼少期のことから伺いたいのですが、設楽さんはお生まれが東京ですよね?
設楽:戦後間もない1951年に、新宿で生まれました。まさに世紀の半ば、ミッドセンチュリーのど真ん中に生まれ、まだ戦後の名残があるなかで育ちました。
金丸:新宿のお生まれなんですね。
設楽:新宿の柏木と呼ばれていたエリアです。大久保と東中野の中間にある淀橋市場の近くでした。子どもの頃は午前中の競りが終わると、市場の中でよく遊んでいました。
金丸:当時、新宿の眺めというのは、どのような感じだったのですか?
設楽:富士山がクッキリと見えていましたよ。周囲はみんな貧乏でしたね。家の裏の原っぱに土管が積んであって、そこにゴザがかかっていて、浮浪者が住んでいました。新宿の大ガードの脇にも、浮浪者がたくさんいるような状況でした。そこから数年で大きく変化していくんです。家にテレビがやってきた日のことは、いまも鮮明に覚えています。力道山のプロレスやディズニーアニメ、アメリカのホームドラマを観て、すごく憧れましたね。男はアメリカに憧れ、女性はパリに憧れる。単純な時代でした。
金丸:まさに、戦後から高度経済成長期の真っただ中を生きてきたわけですね。お父様はどんな方だったのでしょうか?
設楽:父は昔、船に乗っていました。その後、水産会社に勤めたのですが、結核を患ってしまい、会社を辞めて自分で事業を起こしました。ダンボールのパッケージの会社です。自宅の脇に小さい工場があり、数人の従業員が住み込みで働いていて、母が料理を作っていました。母はいつも「工場には近づいちゃだめよ。危ない機械がいっぱいあるから」と私に言っていましたが、そう言われると、近づきたくなってしまうんですよね(笑)。また私の名づけ親は、父です。太平洋から一字とって「洋(よう)」とつけてくれました。たいがい「ひろし」と呼ばれてしまうのですが(笑)