SPECIAL TALK Vol.10

~夢は6.5坪から始まった~

創意工夫の原点は幼少期。何もないことが想像力をかき立てる

金丸:小学校はどちらへ?

設楽:国立の筑波大学附属小学校です。

金丸:そうなると、地元にいた頃と遊びも大きく変わったのではないですか?

設楽:いえいえ。国民の大半が貧乏だった時代なので、大差ないです。いまのようにおもちゃはなかったので、なんでも自分で作って遊んでいました。手先の器用な親父の血を引いているからなのか、創意工夫するのが好きでしたね。割り箸に輪ゴムをつけて、鉄砲のようなものを作ったり、腹話術の人形を作ったりしていました。家業のおかげで、家にはダンボールの破片がたくさん転がっていたので、それを手にしては「何を作ろう?」「何が作れるだろう?」と想像し、ワクワクしていました。考えるのが好きなのはその頃からですね。いまの私に繋がっていると思います。

金丸:何もないというのは決して悪いことではなく、いろんなものを生み出せる可能性を秘めているんですよね。

設楽:すごくそう思います。モノと情報がないことで、かえって創意工夫の能力が高められたように感じます。それこそ、自分の頭ひとつですからね。同じ材料なのに出来上がったものを見比べると、ほかの人とは全然違う作品に仕上がっていて、驚いたり。いまの時代はいろいろなものが揃ってはいますが、昔の方がいい意味でシンプル。楽しめたと思います。

金丸:いまや答えに辿り着くまでのプロセスが、ワンタッチでできる時代ですからね。しかし、指一本で手に入れたものと、苦労して手に入れたものでは、重みがまったく異なります。

設楽:そうですね。私がビームスを始めたのは1976年なのですが、当時は欲しい情報を得るために必死でした。誰に聞けばいいのか、どこに行けばそういう人に会えるのかを必死に考えて走り回り、それでも手に入らないことがありました。いまはキーを叩けば、一瞬で答えが出てしまいます。心の底から欲しくて、手に入らなくて、それでも探してやっと手に入れる喜び。そういう喜びを享受できる時代に生まれて、本当によかったと思っています。

大学時代、横須賀の基地内でアメリカの生活に魅了される

金丸:中・高は、東京教育大学附属中高等学校(現・筑波大学附属中高等学校)を経て、慶應義塾大学経済学部に入学されます。ちょうど学生運動が盛んな時期ですよね。

設楽:団塊の世代のちょっと後なので、学生運動の名残がありました。慶應も学校が封鎖されて、授業を受けたくても受けられませんでした。とはいえ、私は遊ぶことしか考えていませんでしたからね(笑)。中学、高校とサッカー部で鍛えられ、浪人生活も送ったので、大学に入ったときは、遊びたい欲求が極限を超えていました。入学したら絶対に軟派なサークルで遊ぼうと(笑)。結果、広告研究会と、かわいい子に釣られてテニスサークルに入りました。晴れたら湘南、雨が降ったら雀荘という生活でしたね。

金丸:一気にたがが外れたわけですね。

設楽:そうですね。そして、アメリカとの出会いを果たします。広告研究会では毎年夏に、湘南の葉山でキャンプストアを開いていたのですが、ここで横須賀の米軍の子どもたちと友達になったんですね。それで、年に何回か一般の人は入れない米軍基地内に入れてもらっていました。基地には、これまで見たことのない「本物のアメリカ」がありました。芝生の上に将校の住む白い家が建っていたり、大きな犬が走り回っていたりね。庭にバスケットのゴールリングがあって、子どもたちがバスケをしている。足元を見ると、見たこともないカッコいいバッシュを履いている。あれはどこで買えるんだろう、と思いました。いまと違って当時は、彼らが着ているものや履いているものは、どこにも売っていなかった。たまに基地内のバザーで買えるけど、大きすぎて自分に合うサイズじゃない。このときの気持ちが、ビームスの原点です。欲しいけれど、買えるところがないという。

金丸:それは幸運な出会いでしたね。日本にいながら、アメリカを感じることができたんですね。

設楽:当時のインポートマーケットというのは、たとえば百貨店の特選階にある、グッチ、エルメス、ヴィトンなどのハイブランドか、アメ横・横須賀の米軍放出品の2択しかありませんでした。ハイブランドと日用品の中間にあるはずの、有名じゃないけど、いいものというのがまったく手に入らない。ひたすら情報を渇望していた時代でした。

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