「ハワイに来たら、必ず最初に行くってところに、まずは案内するよ」
リッツカールトンを出発した静香と男は、カラカウア通りを行き、真っ白な宮殿のようなホテルに着く。
爽やかな風が吹き抜けるロビーを越えると、大きなガジュマルの木があり、そのふもとにパラソルが立ち並んでいる。
そこは『モアナ・サーフライダー』の『ザ・ビーチ・バー』だ。
「俺が好きなのは、この辺の席」
男に案内されて着席すると、目の前にはワイキキビーチが広がっていた。海面がキラキラと光っている。まだ午前中だというのに、ビーチは様々な人種・年齢の人々で溢れ返っていた。
『ロングボード』というハワイの地ビールで乾杯した静香と男は、会話を弾ませるわけではなく、しばらく空と海を眺めた。
日本では絶対に食べないようなボリュームのハンバーガーを頬張ったあと、静香は履いていたスニーカーを脱いでビーチに出る。
「ハワイに来て、なんでスニーカーなの?」
そう言って男は笑った。そういえば彼は、機内で隣に座ってからずっとビーチサンダルだ。
ビーチに立ち、右手に海をとらえると、視線の先にはダイヤモンドヘッドがある。“これぞワイキキ”と言いたくなる光景が、今、静香の目の前にあった。
ランチだけの約束ではあったが、どこか居心地の良さを感じていた静香は、その後も一緒に過ごした。
カラカウア通り周辺の“王道の観光ポイント”を徒歩で案内されながら、オススメのバーやカフェに入り、そのたびに乾杯する。
最初のバーこそ男が支払ってくれたが、その後は一軒ごとに、静香が奢ったり、男が奢ったりした。
その間、互いのプライベートを探るような話はしなかった。男が聞いてこないので、静香も聞かなかった。
代わりに好きな映画や、小説や、これまで旅をした場所の話などをした。居心地の良さはそれが原因だろう。
「あなたとは初めて会ったような気がしない」
「実は、俺も」
そう言って二人は笑う。
静香は酒に弱いわけではない。むしろ強い方だ。ビールも、ワインも、日本酒だってウイスキーだって飲む。しかしハワイの陽気がそうさせたのか、夕方になると、すっかり酔っていた。
それゆえ、すっかり男に対する警戒心はなくなっていた。いや、思い返してみれば、なぜだか最初から、警戒心はなかった気がする。
「いい加減、あなたの名前を聞いてもいい?」
『ストリップ・ステーキ』でディナーをしているとき、静香は我慢ならずに尋ねてみた。
しかし男は笑って、こう言う。
「知らないままでいい。お互い名前は知らないままで」
「どうして?」
「それが旅の醍醐味だから」
なるほどね、と静香は思った。
傷心旅行のつもりで訪れたハワイ。初対面の男と他愛もない話をして初日を過ごすのも悪くない。
日が沈み、すっかり涼しくなった街を歩き、リッツカールトンに戻ってきた静香と男はエレベーターに乗り、それぞれの部屋がある階へ向かった。
「じゃ、これで」
「うん。これで」
どちらからともなく別れの言葉を囁いていた。
―これでサヨウナラ。二度と会わない。
途端に静香は寂しくなる。
ふと視線を移せば、男はじっと静香を見つめていて、目が合うとクシャッとした笑顔となった。
本来なら笑顔で返すところだ。しかし静香はただただ男を見上げてしまっていた。
すると、男の顔から笑みが消えた。
視線を外そうとしたけれど、金縛りにあったように動けない。憂いのある男の瞳に、心が吸い込まれそうだった。
「本当に、これが最後?」
男が聞いてきた。静香が返事をする前に、その唇を、唇でふさがれる。
こうして静香は、名前も知らない男とキスをした。
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この記事へのコメント
モアナとか、具体的な名前出てくるとほんと情景が浮かぶわ。。
坂口憲二で脳内再生させていただきました。😌
南の島でイケメンと、、、
実際は一度もないけど。