「ハァ…つかれた…」
動悸を抑えながらどうにか辿りついた自分のデスクで、望美は居眠りをする劣等生のように突っ伏す。
最上階の社内ホールとは打って変わって、7階のオフィスフロアには一切の人影も見当たらない。時刻は19時20分。少なくとも、新年会がひと段落する20時過ぎまでは、誰もここへは現れないだろう。
―気分悪い…。10分くらい休んだら、今日はもう家に帰ろう。
そう心に決めると望美は、デスクに置き忘れてしまっていたスマホを手に取る。
だが、なにげなく画面のロックを解いたその時。背後から「川辺さん」と望美を呼ぶ声が聞こえた。
「はいっ!?」
望美が素っ頓狂な声を上げて振り向くと、そこに立っていたのは、先ほど壇上に上がって小粋なジョークを振りまいていた男・上岡浩之だ。
上岡はわざとらしく望美の手元のスマホを覗き込むと、からかうような目つきを向けながら言う。
「へぇ〜。これ、望美の飼ってる猫?」
望美のスマホの待ち受けは、黒猫の写真だった。不躾な態度に苛つきを覚えた望美は慌ててスマホの電源を落とすと、上岡の視線から逃れるように席を立ち、身支度を整え始める。
「上岡さんには関係ないです。それに、何度も言ってますけど…もう、望美って呼ぶのやめてください。早く会場に戻った方がいいんじゃないですか?」
「そんな他人行儀なこと言うなよ。壇上から望美が会場を出て行くのが見えたから心配で、スピーチが終わるなりこうして駆けつけたんじゃないか」
さも面白そうに笑みを浮かべながら、上岡は話を続ける。だが望美は、そんな上岡を完全に拒否しながらエレベーターに乗り込むと、真顔のままドア脇の「とじる」ボタンを連打した。
「なぁ、望美。猫買うほど寂しいなら、もう一度…」
エレベーターの前までついて来た上岡の言葉は、重厚なドアによって遮られる。下降するエレベーターの軽い振動に身を任せながら、望美は大きく深いため息をつくのだった。
オフィスのある新宿から望美の自宅がある都立大学までは、東横線で30分弱。さらに駅からマンションまでは、歩いて10分程度だ。
駅を出た望美は、マンションが面している目黒通りの方へと向かって、早足で歩きながら強く思う。
―早く帰りたい。早く帰って、ヒデを撫で回したい。
抑えきれない欲求をどうにかねじ伏せながら、途中のコンビニでプリンをひとつだけ買う。そして、ようやくマンションにたどり着くと、勢いよく玄関のドアを開けた。
「ヒデ〜、ただいま!プリン買って来たよ〜」
息を弾ませ呼びかけたものの、反応はない。望美は「まったく…」とつぶやきながらショートブーツをたたきに脱ぎ捨て、ゆっくりとした足取りでリビングへと向かった。
案の定、ヒデはゲームの画面に夢中になっているようだった。リビングのソファの背もたれから、ほんの少し頭の黒い毛が覗いている。
望美は足音を立てないようにゆっくり近づくと、ヒデの頭から勢いよくヘッドホンを外し、その耳元で「ただいまっ」と声を上げた。
「うおっ、なんだよ〜!新年会っていうからもっと遅いかと思ったよ〜」
ビクッと肩を竦ませながら、ヒデが振り向く。
そして、クシャクシャと気の抜けた笑顔を浮かべると、優しく甘えるような口調で言った。
「おかえり、望美さん」
ヒデのボサボサとした髪の毛に顔を埋め、望美も返事をする。
「ただいま、ヒデ。イイ子にしてた?」
筋張ったヒデの大きな手が、望美の頭を優しく撫でる。
柔らかな黒い毛。まばらなヒゲ。望美が飼っているのは、黒猫などではなかった。
自宅で望美の帰りを待つ、愛しい存在。
それは、柔らかな黒い毛並みの…
働いていない、若い男の子なのだ。
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なぜ望美は、ヒモと暮らしているのか。無職の美男子・ヒデとの、倒錯した生活
この記事へのコメント
そして、シリコンバレーからのエリートを振り切ってまで帰ってきたのが無職の子のところ…
余程のイケメンなのかな?
キミはペットのモモくらいイケメンだとわたしも一度くらいはかこってみたい笑