「明久。結婚するなら、婚前契約書を交わしたほうがいいぞ」
それは、新卒時代の会社の先輩と飲んでいたときのこと。
僕が絵麻の話をして、そろそろ結婚を考えていると口にすると、かぶせるようにそう言われた。
彼は、新卒のころ広告代理店でお世話になった5つ上の先輩だ。僕と同様に代理店を独立し、現在はデザイン事務所のトップをしている経営者仲間でもある。
「お前、会社の株式持ってるんだろ。婚前契約書を交わしておかないと、万が一離婚、なんてことになったらかなり面倒だぞ」
「えっ…そ、そうなんですか?」
恥ずかしながら、僕は先輩の話を聞くまで、婚前契約書がどういうものなのかよくわかっていなかった。
もちろん、名前くらいは聞いたことがある。しかし、何のためにそんな契約を結ぶのかいまいちピンときていなかったのだ。
「ああ。俺、実際に大変な目にあったんだよ…」
先輩は、2年前に離婚を経験している。そういえば、離婚をめぐってかなり揉めた、とはチラリと聞いたことがあった。
当時の騒動を思い出したのか、苦々しい顔で僕へのアドバイスを続ける。
「結婚後に事業が成長して、その後に離婚した場合、所有している会社の株式も財産分与の対象になる可能性があるんだ。
…そうなったら悲惨だよ。会社の経営が傾くし、最悪、倒産したり従業員の給与が払えなくなるかもしれない。お前も、会社が大事ならちゃんと考えておけよ」
倒産、給与不払い…。想像しただけで頭がクラクラする。
今でこそようやく余裕を持てるようになったが、独立したばかりの頃は、文字どおり死に物狂いで働いた。
地道に積み重ねてきた大切な会社を潰すわけにはいかない。どんなことがあっても。
絵麻のことは心から大切だし、結婚したら夫婦としてずっと一緒に過ごしていきたいと思っている。だが同時に、会社を守っていきたいという決意も本物なのだ。
自分が結婚することによって、その結果が会社に損失を与えたり従業員を巻き込むことだけは、なんとしてでも避けなければ。
会社を守ること、そしてこれらの心配を取り除いた上で結婚に踏み切ることが大事だ。そう思った僕は、先輩に向かってきっぱりと告げた。
「わかりました。婚前契約書、考えてみます」
そう宣言したものの…。
いざ絵麻を前にすると、どうしても切り出せない。そうして時間だけが過ぎていき、付き合って2年の記念日は、もう来月にまで迫ってしまった。
−いや、もうこの期に及んで迷っている場合じゃない。決めるときは決めないと…!
正直、絵麻の「結婚するよね」アピールを、これ以上曖昧にして誤魔化すのは無理がある。
この間も、ハレクラニのパンケーキを褒めてしまったばっかりに、同期のハネムーン写真を何枚も見せられ大変だったのだ。
−やるしかない。
プロポーズをして、そして同時に、婚前契約書についても合意してもらう。
きっと大丈夫。きちんと話せば、絵麻もきっと理解してくれるはずだ。
「絵麻。僕と、結婚してほしい」
−完璧だ。
自分でも惚れ惚れするほどに、完璧な演出のはずだった。
その証拠に、絵麻は両手を口元に当て、瞳をうるうるとさせ、今にも泣き出しそうな表情で僕を見つめている。
絵麻がずっと行きたがっていたシャトーレストランを予約し、真っ赤な薔薇の花束まで用意したのだ。
相当キザで小っ恥ずかしかったが、この後に“例の話”をするわけだから…やり過ぎくらいに盛り上げておいた方がいい。
「明久…嬉しい、ありがとう」
震える声で呟く絵麻に「こちらこそ、ありがとう」と答え、そして僕はついに覚悟を決めて口を開いた。
「絵麻…結婚するにあたり、一つだけ頼みがあるんだ」
「何…?」と潤んだ瞳を向ける絵麻。そんな彼女に向かって、僕はついにその言葉を口にする。
「結婚前に、婚前契約書を交わしてほしい」
そのセリフを聞いた瞬間…30秒前まで天使のようだった絵麻の顔が、思いきり歪んだ。