2019.09.23
病める時も、ふくよかなる時も Vol.1レッスンが無事に終了し、後片付けと夕食作りを終えた頃には、午後の8時を少し回っていた。
―誠司さんが帰ってくるまでに、先にさっぱりしておこうかな!
そう思い立った美月が向かった先は、バスルームだ。
手早くシャワーを浴びて汗と化粧を落とすと、オールインワンジェルを簡単に頬に塗り込む。
長い髪をヘアクリップを使って頭のてっぺんでざっくりとまとめ上げ、コンタクトも外してメガネをかける。
体に巻きつけていたバスタオルを解き、部屋着兼パジャマとして愛用しているレギンスとTシャツに袖を通す…。
背中に大きく「HONEST DENTAL CLINIC」と書かれたメンズサイズのTシャツは、誠司が経営する歯科のスタッフ用に作られたものの余りだ。
お世辞にも色気のあるデザインとは言えないが、着心地の良さから美月も頻繁に家で着用している。
くつろぐための支度を一通り終えた美月は、ふぅ、と小さくため息をつくと、再び時計に目をやった。
午後9時。間もなく誠司が帰宅する頃だ。
都内4箇所で審美歯科を経営する凄腕歯科医の誠司は、どれほど多忙な時でも必ず9時に帰ってきて、美月と夕食を共にする。
それが、新婚当初からの夫婦のルールなのだった。
「そろそろかな…」
そう美月が声に出してみたその瞬間、玄関のドアが開く鈍い音が部屋に響いた。
「やっぱり!」
美月は弾かれたようにリビングから飛び出すと、玄関の方へと小走りで向かう。
「誠司さん、おかえりなさい!」
玄関には、背が高く優しい目をした誠司がいつものように美月の出迎えを待って佇んでいた。
「みいちゃん、ただいま」
食べても食べても太ることができないと言うスマートな体を、白いTシャツとジーンズに包んだ誠司は、美月を抱きしめその唇に軽いキスをする。
「今日もすごくいい匂いがする。夕食は何?」
「今日はね、誠司さんの大好きなコッテリ味のビーフストロガノフだよ!」
誠司はもう一度美月をぎゅっと抱きしめると、再び美月に小鳥のように軽いキスをした。
夕食のメニューを報告して、小さなキスを貰う。これも、結婚してからずっと続いている、仲睦まじい2人の習慣なのだった。
たっぷりとサワークリームを乗せたビーフストロガノフ。砕いたタコスとフライドオニオンをこれでもかと振りかけたコブサラダに、根菜を山ほど入れたチキンヌードルスープ。
「すごく美味しい。やっぱり、みいちゃんのご飯は最高だね。いつもありがとう」
自分の作った料理を、誠司は毎日心から美味しそうに食べてくれる。そして、そんな誠司の笑顔を見るたび、美月は言いしれない幸福を感じるのだった。
―この人と結婚できて、本当に幸せ…。
そんな感謝の思いが、結婚して5年がたった今でも美月の胸を満たしている。
いつも欠かさず感謝の気持ち表現してくれる誠司の愛を、美月はこれまで一度も疑ったことが無かった。...たとえ、夫婦にとって大切な営みが、3年間も途絶えていても。
幸せな夫婦の夜。変わらぬ愛に満たされた関係。この穏やかな日常に、美月は5年の間、1ミリの疑問を持つこともなかった。
だが今夜、美月の胸はどういうわけかザワザワと波立つ。
ーセックスレスが夫婦を破壊するー
ー美月先生はまだまだお子さん持つ予定無いんですよー
昼間目にしたどぎつい中吊りの文字や、料理教室の生徒さんが放った悪気のない言葉のせいかもしれない。
美月夫婦に、子どもを作る予定がなかったのは事実だ。まだ夫婦生活があった新婚当初も、誠司はこう言っていた。
「子供はしばらくいらないよね。何にも邪魔されない、みいちゃんと2人だけの生活を楽しみたいんだ」
しかし…。
「しばらく」はいつまで続くのだろう?そうこうしているうち、いつのまにか長い月日が過ぎ、今ではベッドを共にする習慣すらなくなってしまった。
ビーフストロガノフを完食した美月は、スプーンを皿に置く。そしてさりげなく、目の前でニコニコと微笑んでいる誠司に問いかけてみた。
「誠司さん。今夜ね、久しぶりにそっちの部屋で一緒に寝てもいい...?」
美月としては、本当に何気なく言った言葉だった。しかしこの一言が、穏やかで幸福だったはずの結婚生活を一変させてしまうなんて…。それがわかっていたならば、絶対に口になどしなかったのに。
美月の言葉を聞いた誠司は、穏やかな表情を崩さぬまま静かにスプーンを置いた。
そして、美月の瞳を愛おしそうに見つめながら言ったのだ。
「みいちゃん…」
美月に愛の言葉をささやくのと同じ、柔らかな声色で。
「それ…冗談だよね?」
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