道ならぬ恋の始まり
頼まれていたデータ作成でもしておこうと、私は昼過ぎにオフィスを訪れた。
誰に会う予定もないからと、グランデサイズのスタバラテを片手に、オフショルトップス×デニムという非常にラフな格好で。
しかし、がらんとしたフロアに彼の姿を見つけ、思わず「あ」と息を飲んだ。
「…いらしてたんですね」
彼、大谷の席は、私の座っている島から少しだけ離れた窓際にある。
躊躇いながらも声をかけてみると、思いがけず人懐こい笑顔を向けられた。今日の彼はジャケットではなくカジュアルなシャツスタイルであったことも、いつもより柔らかな印象に映ったのかもしれない。
「ああ。ちょっと調べておきたいことがあって。…それより三好さんこそ、週末まで仕事?」
「私は…家にいても暇だったので」
自虐を交えてそう返すと、大谷は「なるほど」と小さく笑い、そのままPCへと視線を落とした。
そして私たちはその後、特に言葉を交わすこともなく、黙々と仕事をした。
−そろそろ帰ろうかな…。
集中力が途切れたタイミングでふと顔を上げると、窓の外が紫色に変わり始めていた。
スマホで時間を確認すると、もう間もなく18時になろうというところ。そっと大谷を盗み見ると、彼はまだ真剣な表情でPCに向かっている。
邪魔をしないようにと思い、静かに帰り支度を始めた、その時だった。
「帰るの?」
不意に声をかけられ振り返った私は、両腕を上げて伸びをしている大谷と目が合った。
「あ、はい。そろそろ…」
そう答えながらデスクを片付けるも、彼に見られていると思うとなぜか緊張してしまう。
「お先に失礼します」
若干、挙動不審気味に慌てて立ち去ろうとしたところ、しかし大谷が思いがけぬ言葉で私を呼び止めた。
「よかったら一緒に飯でも行かない?休日出勤のご褒美。もちろんご馳走するよ」
「えっ…」
突然の誘いに、私は驚きを隠せず目を見開いた。
「あ…ごめん。予定があったか?」
暫し言葉を飲んでしまった私を、彼は困惑していると捉えたようで、大谷は気まずそうに笑う。
「いえ、別に何も…」
−気をつけなければ。
予定はないと答えながらも、頭の中では警告音が響いていた。
上司とはいえ、男と二人きりで食事に行くことを、昭人だって快くは思わないだろう。
しかし一方で、大谷の誘いを喜んでいる自分がいる。…断ることはできなかった。
−別に、上司と食事に行くだけよ。ただ、それだけのこと。
まるで言い訳をするように、気づけば私は自分にそう言い聞かせていた。
「じゃあ…ご一緒してもいいですか?」
迷いを振り切り、私は遠慮がちに大谷を見上げた。
「ああ」と小さく頷く彼の、はにかんだ笑顔が瞼に残った。
▶NEXT:11月24日 土曜更新予定
昭人という彼氏がいながら、大谷に惹かれる明日香。二人は少しずつ、距離を縮めていく。
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