人妻にとって、遠くかけ離れた世界。金曜夜の六本木
食事会の場所は六本木だった。その日はちょうど金曜日で、街は多くの人で溢れている。
「金曜の夜に六本木を歩くなんて、久しぶり...」
タクシーが無数に行き交う、昼間よりずっと混雑した道路。仕事終わりと思しき男女は、誰もがこの乱雑で艶めかしい六本木の街に同化しているように見える。
人妻となった自分にとっては、すでに遠く離れた世界。
特に菜月の目を引いたのは、瑞々しい手足や肩を惜しみなく露出させ、夏らしい明るい服を着た若い女たちだ。
隣の美加も、水色のブラウスに白のフレアスカートという食事会にぴったりなファッションをしている。
番町の自宅に戻るのも面倒で、黒のサマーニットにワイドパンツという色気のない恰好で金曜夜の六本木に出向いてしまったことが悔やまれた。
「あ、ほら、ここだよ!」
『ベンジャミン ステーキハウス 六本木』は、六本木交差点からすぐの場所にあった。
重厚感があり、かつ賑やかで洗練された雰囲気のこの店は、1か月ほど前にオープンしたばかりの話題の店だという。
「ねぇ、本当にいいのかな、こんな素敵なお店...。私、独身じゃないのに...」
「いいのいいの!私の友達の達也くんは、ちょっとチャラいけど、そういうの分かってくれる人だから。説明は私があとでするから、菜月は心配しないで。今夜は楽しもう!」
奥まったテーブル席では、スーツ姿の男たちがすでにビールを飲んでいた。
美加の友人の達也は、2つ年下の29歳の商社マンとのことで、たしかに遊び人風で、若々しく整った可愛い顔立ちをしている。
「おう。美加、お疲れ」
そう言って、美加の肩を軽く抱く。いかにも女慣れした立ち振る舞いに、菜月は一瞬面食らった。
もう一人の男は、もともと達也の同期で、家業の食品メーカーの仕事を継いだばかりだという。育ちの良さそうな顔と、優し気な雰囲気が印象的だ。
皆はとりとめのない話でさっそく盛り上がっているが、菜月は既婚という隠居生活が長かったため、会話に混じるのも一苦労だ。
しかも一応既婚を伏せているから、話す内容にも気を遣わなければならない。
結局、中途半端な微笑を顔に貼り付けたまま、3人の会話に耳を傾け、言われた通り黒子に徹する。
皆の話に相槌を打ちながら肉汁滴るステーキを口にすると、何となく夫の顔が思い出された。
「菜月さん、仕事は何してるの?お酒、飲まないの?」
ふと気づくと、達也が頬杖をつきながら、じっとこちらを見つめている。
「よ、ヨガインストラクターをしてます。最近、あんまり飲んでないので...」
そう答えると、彼は口元に薄い笑みを浮かべた。そして形の良い二重の瞳で、さらに無遠慮なほど強く菜月を見つめる。
―何か、嫌な感じ...。
妙な居心地の悪さを感じながらも、辛うじて平静を保つ。男の人からこんな視線を向けられるのも、実に久しぶりなのだ。
「もしかして、人見知り?可愛いね。ねぇ、菜月さん、ものすごい俺のタイプなんだけど」
達也が囁くように言ったとき、菜月の胸は驚くほど大きく音を立てた。しかし感情はそれに反して、彼の軽率で勝気な発言に、酷く苛立ちを覚えている。
あとから思えば、それは理性が辛うじて発していた、無謀な恋に落ちる前の危険信号だったのかもしれない。
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この記事へのコメント
この手の間違いをちょこちょこしてますよね。
名前的にTOKIOの山口を
イメージしてしまうのは私だけ?笑