彼は33歳の時、父親に強く勧められた相手と結婚し、子供が2人いるのだ。初めて会った時に聞いていた。それまで香織は、築地の健一郎のように、既婚者と聞けばどんな魅力的な人でも恋愛対象から除外していた。だが、純一は別だった。
初めて会った時から、彼の優しい声の出し方や温和な雰囲気に魅了された。それからデートを重ねて、彼の部屋へ泊まった。
帝国ホテルタワー館のエレベーターを25階で降りると、窓からは照明に照らされた国会議事堂の頭が小さく見えた。しんと静まりかえる廊下を、ふかふかの絨毯を歩くには心もとない細いヒールで歩いた。その日は、彼の薬指に指輪はなかった。
◆
ある日の夕方、その頃にはすでに会社を辞めていた同期の真希とコリドー街を歩いていると、彼を目撃した。彼は東京に来る時はいつも連絡をくれていたが、この時は何も知らされていなかった。
よく見ると、彼の隣には地味だが品のある女性と、小学校低学年ぐらいの男の子と女の子がいた。子どもたちは飛び跳ねながら楽しそうに、純一の手を取り合うようにして歩いていた。
急に立ち止まった香織を見て真希は驚いたが、純一の話を聞いていた彼女は、目線の先を見て全てを理解してくれた。
「やっぱり、よくないよ。やめときな?」
これまでと同じように、真希は優しくそう言った。「やめときなよ」とは何度も言われたが、進みだした気持ちはどうしても止めることができなかった。だが、彼の家族を見た後で、再び彼に会いたいという気持ちは湧いてこなかった。
以来、彼との連絡は断ち一度も会っていない。彼と会わなくなった代わりのように、香織も靴にはこだわりを持つようになった。
ジョンロブのビスポークには到底及ばないが、クリスチャン・ルブタンやマノロ・ブラニク、フェラガモなどのシンプルで美しい靴を、メンテナンスしながら大切に長く使うのだ。
その靴たちを相棒に、きつい仕事も頑張った。残業中、人がほとんどいなくなった社内で一人キーボードを打っている時も、ふと目線を落としてルブタンのヌードカラーパンプスを見れば、頑張れた。
あの日食べたふぐやグランメゾンの味はもう忘れてしまったが、靴へのこだわりは続いている。
日比谷線の女
過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。
そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。





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