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日比谷線の女 Vol.10

日比谷線の女:地方在住2代目社長との、日比谷・帝国ホテルでの許されぬ恋

彼が帝国ホテルを選んでいた大きな理由は二つあったように思う。一つはミュージックルームだ。スタインウェイのピアノが置いてあり、予約を取ることができれば宿泊者は誰でも使える部屋だ。ここで、自宅と同じピアノを弾いていると心が落ち着くのだと言っていた。

男兄弟はおらず、姉と妹に挟まれて、小さい頃から後継者として厳しく躾けられ、言い過ぎかもしれないが、いわゆる‘帝王学’を叩き込まれたた彼は、教養としてピアノも習っていたそうだ。

香織も一度だけこの部屋へ入れてもらったことがある。「セナのピアノ、弾いてほしいな」と言うと、彼は一瞬キョトンとした後、「ああ、ロンバケだよね?」と言いながら、すぐに弾いてくれた。

他にも、彼が好きだというショパンや、ディズニー、ジブリまで様々な曲をさらりと弾いて楽しませてくれた。

そして、彼が帝国ホテルを選ぶもう一つの理由は、目の前の日比谷公園だ。彼は読書が大好きで、いつも何かしらの本を読んでいた。休日には本を持って日比谷公園に行き、至る所で本を読むのだった。


大噴水の前で水の音を聞きながら、第一花壇で花を眺めながら、日比谷見附跡から心字池を見下ろしながら、テニスコート横の石段ではテニスボールがラケットに弾かれる音を聞きながら、そして雨の日は公園内の図書館で外を眺めながら……。その時の気分に合う場所で様々な本を読んでいた。

香織も何度か彼の読書に付き合ったことがある。ベンチの多い日比谷公園では、場所探しに困ることはなかった。

ある時は、楔形文字の読み解き方に関する本を、ある時は英語で書かれたビジネス書を読むなど、そのジャンルも広かったようだ。

『新世界グリル 梵』のビーフヘレカツサンドや、『はまの屋パーラー』の玉子・サンドを読書のお供にすることもあった。

公園内のレストランにもよく連れて行ってもらった。『ヒビヤサロー』のビール、『南部亭』のフレンチ、『松本楼』のカレー、『日比谷パレス』のプロヴァンス料理…香織は今でもそれらをはっきりと覚えている。

彼はコリドー街周辺も気に入っており、スターバックスで待ち合わせることも多かった。いつかは行きたいと思っていた、ふぐ料理の『福治』や、グランメゾンの『ロオジエ』にも彼に連れて行ってもらった。

派手な遊びにはあまり興味のない彼だったが、身に付けるものにはこだわり、お金をかけていたようだ。中でも靴にはこだわり、ジョンロブに心酔していた。

既成靴のレディトゥウェアから始まり、革の種類など一部をオーダーできるバイリクエストを経て、 丸の内店のビスポークで2足オーダーしたそうだ。

1足に100万近い金額を出してしまうほど、彼は靴にこだわっていた。それらをメンテナンスしながら大切に使うのが彼の流儀なのだ。

「最高のパフォーマンスをするための投資だよ」そう言ってまた、片目を閉じて微笑むのだった。

厳しく躾けられながらも、彼はたっぷりの愛情を与えられ、豊かな暮らしを送ってきた人ならではの余裕と心の広さが随所に見られた。

レストランでのスマートな対応や、食事のマナー、穏やかな休日の過ごし方に触れるたびに「こんな人と結婚できたらいいのに」と思わずにはいられなかった。

だがそう思うほど、彼の薬指で光る指輪に苦しめられた。

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日比谷線の女

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