ラテを半分ほど飲んだところで、2階席に上がってくる男性の声がした。
「…で、そこは計上のタイミングをずらして」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。
将生だ。
いつもの白いTシャツにネイビーのジャケット。隣の男性は顧問税理士の田代だ。革の書類ケースを持ち、メタルフレームの眼鏡をかけている。
二人はこちらには気づかず、奥の二人掛けに腰を下ろした。私は反射的に顔を伏せ、そっと耳を澄ませた。
「OK。じゃあ、それで。来月もよろしくな」
「将生さん、最近プライベートはどうなんですか?相変わらず、遊んでるんでしょ」
「……ん?まぁ、食事くらいはね。若い子は話が軽くて楽だし、なんでもスゴイ〜!って褒めてくれるしさ。お店に行くより安上がりなんだよ」
田代が含み笑いをもらした。
「まぁ、わかりますけど。奥様にはバレないようにしないと」
「いや。もうバレてる…っていうか一回見られたんだよね。アプリで会った子といた時に」
「えっ!マジすか」
「うん。でも、本当に食事に行っただけ。もう会わないよ。まぁ、食事した後に流れで近所のシーシャバーに行った俺が悪いんだけどね。誤解されるようなことはしてたわけだし」
あの夜、私が泣き腫らした目で寝ていても将生は何も聞いてこなかった。
だから私は悟った。夫は浮気をしたのだと。
その日から、将生に対して優しくできなくなっていたし、どこか軽蔑したような眼差しで見ていたと思う。
けれど、こうして第三者に言う彼の言葉が胸の奥に静かに沈んでいき、また違う感情が湧き上がってくる。
それは安心に似ていたが、確信は持てずにいた。
「でも、心配させるようなことはしちゃダメだよな。田代も気をつけろよ」
私はそっと席を立った。
夜。将生は残業後、社員たちと食事を済ませてから帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま。圭太は?さすがに寝てるか」
「うん、今日はなかなか寝つかなくて、絵本8冊読んで、21時半にやっと」
将生は「そっか」といいながらバスルームへ向かい、戻って来ると「ビール、もらっていい?」と言った。
私は、将生に缶ビールとグラスを渡し、ビールの泡が落ち着くのを待ってから口を開いた。
「ねぇ、将生」
「ん?」
「私ね、結婚してから異性の友達と会うのをやめてたんだけど、今後はお茶くらいしてもいいかな」
「…うん?別にいいけど」
将生は少し戸惑いながらも、反論することなくビールを飲み干した。
「それと、あなたの会社の役員として、経理補助や秘書のような仕事を時々しているじゃない?それが税金対策なのはわかるし、生活費を役員報酬としてもらうやり方にも賛成。だからやめるわけじゃないんだけど、それとは別に他の仕事もしていいかな」
「え、何をするの?ていうか、そんな時間ある?」
「あのね、友達がやってるエステサロンでSNSの更新を手伝いたいなって。家でもできるし、家事は代行使ったりして時間は作るよ」
カフェで友達にDMを送ったらすぐに返事があり、詳しい仕事内容や頻度についてやり取りをした。今は具体的なスタート日を決めている最中だ。
「そっかわかった。愛梨がやりたいなら、やってみたらいいんじゃない」
「ありがとう」
“男友達と会うな”も“育児に専念しろ”も将生に言われたわけじゃないのに、勝手に結婚とはそういうものなのだと決めつけて、私は私を束縛していたことに気づいた。
「寝るね。おやすみ」
将生に声を掛けて寝室に向かうと「俺ももう寝る」と言いながらテレビを消した。
歯を磨いている音が廊下の向こうで聞こえる。水が流れる音がして止まり、将生も静かに寝室のベッドに横になった。
「愛梨、ごめん。もう心配をかけるようなことはしないから、その…男友達と愛梨がふたりで会うのはちょっとイヤかも」
「私の気持ち、わかってくれたってこと?」
そう聞くと、答える代わりに寝たままの状態で後ろから抱きしめられた。
本当は男友達もそんなに多くないし食事に行きたいほどの人もいない。けれど、今はまだ言ってあげない。
傷ついたのは事実だから。
将生の寝息が聞こえ始めた頃、なかなか寝付けなかった私は、スマホを開きグループLINEに打ち込んだ。
『愛梨:私も昼間働くことにしたよ!エステサロンのSNS担当のポジションなんだけど、できると思う?笑』
すぐに、まりかから『前に美容皮膚科で受付やりながら広報もしてたんだよね?余裕だよ!ピッタリだと思う♡』と送られてきた。
由里子からも『うんうん!絶対大丈夫だよ』と返信が来る。
スタンプが飛び交う画面を眺めながら、じんわり胸が熱くなった。
女の友情は、環境次第でいとも簡単に遠のいたり消滅したりしてしまうものだと思っていた。
職場を辞めれば一緒に働いていた人とは疎遠になり、夫の稼ぎや子どもの有無で立場が違えば、自然と距離もできていく。
そう思っていたからこそ、心のどこかで「仲良くなりすぎるのはやめよう」と決めつけ身構えていたのかもしれない。
けれど、いま目の前にあるこの画面は違う。
キャリアも家庭環境もバラバラなのに、彼女たちは私の話を聞き、背中を押してくれる。弱音を吐けば笑い飛ばしてくれるし、小さな一歩を踏み出せば大げさに喜んでくれる。
だから私は決めた。友情の賞味期限を勝手に恐れるのはやめよう、と。
彼女たちとなら、この先もきっと笑い合えるはずだから。
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一方、由里子は夫との不仲を解消したかったが…
この記事へのコメント
あと、愛梨が結婚前は美容皮膚科の受付( 兼広報) してたとの事で、何となく低かった好感度が更に落ちた。これは『男女の答え合わせ』の読み過ぎかな、美容皮膚科勤務の勘違い自称モテ女ばかり出てくるからw