圭太は遊び疲れたのか眠そうだ。私はバスタブにお湯をため急いで入浴を済ませ、顔にフェイスパックをつけたまま、冷蔵庫を開ける。
今朝煮込んでおいたミートソースの鍋を取り出して温め、スパゲッティを茹でて食べさせた。
「ママ、ねむい…」
圭太がつぶやいたので慌てて歯磨きをさせ、寝室に連れていくと、絵本を開くこともなくスヤスヤと寝息を立て始めた。
「ふぅ…可愛い寝顔」
私はキッチンに戻ると冷蔵庫を開け、昼間飲み損ねたビールの代わりに、よく冷えたシャルドネの栓を抜き、リーデルのワイングラスに注ぐ。
― さて、夕食はどうしよう。
時刻は19時。今夜は珍しく将生の会食がない…ということは、夕食を用意しなければならないということだ。
圭太用に作ったミートソースはケチャップを多めに入れていて甘いから、彼は好まないだろう。けれど、これから他の何かを作る体力も気力も残っていない。
「ただいま〜」
私が迷っているところに、将生が帰宅した。
「おかえりなさい」
とりあえず、将生の好きなスモークサーモンを入れたサラダを作り、ダイニングテーブルにはタバスコを置いた。
「なんだ、圭太は寝ちゃってるのかぁ…」
そう言いながら彼はスマホをテーブルに置き、ミートソースの味を確かめることもなく、案の定大量のタバスコをかけている。
「今日、保護者会だったんだけどね。秋のバザーかなり大規模らしいよ」
私はサラダを食べながら話しかけた。
「へぇ〜」
「ヘアゴムとか、ティッシュケースとか。何か手作りの物を提供しないとなの…」
将生は目線をスマホから動かさず、画面をスクロールしている。
― はぁ…。
仕事が大変なのはわかる。経営者だし、リスペクトももちろんしている。
けれど結婚しても子どもができても、会食やら何やらで夜遅く帰ってきたり、変わらない交友関係を見ていると、なんだか“ずるい”と思ってしまうのだ。
口を閉ざすと、ようやく彼が「ごめん。なんだっけ?」と聞くが、私は「ううん」とフォークにパスタを巻きつけながら、小さく首を横に振る。
◆
土曜日の11時。
広尾にあるリトル・シャイン。ここは圭太が1歳の時から通っている知育教室だ。教室に通い続けている理由は、圭太の小学校受験を視野に入れているためだ。
去年から母子分離のクラスになったため、圭太がレッスンしている間は、広尾駅前のカフェで時間をつぶすことにしている。
「愛梨ちゃん、今日なんか元気ない?」
私の顔を覗き込んできたのは、吉村由里子。大手保険会社に勤めているワーママだ。同じ教室に彼女の娘が通っているため仲良くなった。
「ううん、そんなことないよ!」
レッスンを待っている間、ここで一緒にコーヒーを飲むようになり、お互いにちゃん付け、タメ口で話す仲にまでなれた。
「そっか…ていうか、愛梨ちゃんって、いつも綺麗にしててえらいよね」
「えぇ!?あ、ありがとう。でも、由里子ちゃんの方がすごいよ。働きながら子育てして、休みの日は習い事だなんて…」
誰かに褒められることが久しぶりすぎて戸惑い、私は咄嗟に褒め返す。
「いやいや、毎日ヘトヘトよ。総菜で夕飯済ませてばかりだし、もっとちゃんと子どもと向き合ってあげなきゃ、とは思うんだけどね」
「そっか…でも、外にも居場所があるのっていいよね。私は夫との会話も、子どものことしか話題なくてさ。しかも、それすら聞いてもらえてないっていうか」
こんなことまで由里子に話すつもりはなかったのに、自然と言葉が出てきてしまう。
ほぼ専業主婦、という選択をさせてもらっている今の生活に不満があるわけではない。むしろありがたく思っている。
でも、由里子のように外で働くという選択をしていたら、こんなに寂しい気持ちになることはなかったのかもしれない…と思うこともあるのだ。
「ねぇ、愛梨ちゃん!今度、夜出かけない? もし旦那さんに圭太くんを預けられる日があればだけど…」
「いいね!そういうの、もうずっとしてないかも」
話に夢中になり、すっかり氷が溶けてしまったアイスコーヒーを飲みながら答えた。
土日の夜ならば、将生も家にいる。たまには私が夜出かけても怒らないだろう。
数時間でもいい。母でも妻でもなく、ただの愛梨になりたい。専業主婦の私にだって、そういう夜があってもいいはずだ。
「オッケー!じゃあ、お店は私が選んでおくね」
そう言ってくれた由里子に、私は笑顔で頷いた。
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この記事へのコメント
5年位前なら毎週コメント欄が荒れたであろう連載が始まった。岡田将生、吉高由里子、平愛梨が浮かぶような登場人物たち。