しかし蒼人は、ぽつりと呟いた。
「でも、結婚って…そんなふうに急いで決めることなんだっけ?子どものことはわかるけど、急いだからって必ず授かれるわけじゃないのに、それを理由に簡単に決めちゃっていいのかな」
「簡単に、なんて言ってない。ただ、一度真剣に考えてほしくて…」
「真剣だよ、ずっと。だからこそ、会社の人にもちゃんと“付き合ってる”って言った。時間をかけて、誠実に決めていきたいと思ってる」
付き合って約半年。
今まで、ここまで真剣に本音を話したことはなかった。
慣れない空気感に、私は居心地が悪くなってくる。
「…私はただ、焦る気持ちがあることを、蒼人にわかってほしいだけ」
「うん。それを聞けたのはよかった」
「今まで、結婚はまだいいとか言ってたのにごめんね」
蒼人は小さく「ううん」と言った。
「でもさ、菜穂。30歳を超えたら、半年とか一年付き合って結婚って、よくある話なのかもしれないよ。でも今の僕には、そのスピード感がどうしても腑に落ちない。なんかすごく不誠実に思える」
私はうまく答えられなかった。気まずさを残したまま、私たちは言葉少なに食事を続けた。
◆
以降、蒼人は、少し元気がない。
冷たくはないけれど、なにかを抱えているように見える。
微妙な空気を引きずったまま、蒼人との半年記念日が近づいていた。
会社の創立記念休暇を使って出かけようと、蒼人から誘ってくれたのだ。
私は「旅行の計画はまかせて」と言って、箱根の旅館を予約していた。選んだのは、肉料理が評判のきれいな宿。きっと喜んでくれるだろう。
日頃の感謝を込めて、日本橋の三越でプレゼントも用意した。男性用の高級化粧水と、彼が仕事で使えそうな上質なノート。
とりあえず、また楽しい関係に戻りたい――蒼人との未来を失いたくない私にとって、それが喫緊の課題だった。結婚については、またどこかで話し合えばいい。
◆
そして、旅行当日。
箱根の温泉旅館は、期待通りの素晴らしさだった。
柔らかな湯に浸かり、食事も丁寧で美味しく、私たちは少しずつ、普段の距離を取り戻していった。
「あーすんごい幸せな気分」
食後、部屋にある大きなL字型ソファに身を委ねて、蒼人が言う。彼の言葉に、私はほっとしながら頷いた。
「本当ね。お互いに忙しいけれど、また、場所を変えて、いろんなところに行こうよ」
すると蒼人が、真顔になった。
「ねえ、真剣な話をしてもいい?」
その表情に、私の胸は、静かにざわついた――。
▶前回:元カレから「結婚前提でやり直そう」と言われた30歳女。もう好きじゃなくても心が揺らぐワケ
▶1話目はこちら:「時短で働く女性が正直羨ましい…」独身バリキャリ女のモヤモヤ
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温泉旅館での特別な夜。しかし、幸福な空気感は一変し…?
この記事へのコメント
28点!もう少し別の表現方法があると思うし、旅館のくだり、全体的に雑。