126fc3850874ce3e291e133e91a072
SPECIAL TALK Vol.127

~「家族」を描き続けたからこそ、映画の先に見えてきたものがある~


苦学しながらもバスケットで国体出場


金丸:想像豊かでありながらも、バスケットボールでも活躍したということは、運動神経もよかった?

河瀨:足が速くて、1年生から6年生まで徒競走はずっと一等賞でした。

金丸:バスケットはいつ始めたんですか?

河瀨:中学生です。

金丸:強い学校だったんですか?

河瀨:そんなことはないです。でも中学のコーチが「自分の母校の奈良市立一条高校に行け」と。それで、必死に勉強して入学して。

金丸:結果、国体選手に選ばれたわけだから、コーチの目は確かでしたね。ポジションはどこだったんですか?

河瀨:フォワードです。

金丸:ポイントゲッターで切り込み隊長。かっこいい。

河瀨:国体に選ばれたこと自体はありがたい話なんですけど、最初は辞退するつもりだったんですよ。というのも、私を止めるためにディフェンスが2人張り付いて、全然得点できなくて。それで部のみんなを全国大会に連れていくことができなかった。でも部から選ばれたのは、私ひとり。私だけが国体に行くのは違うんじゃないかって。

金丸:それはそれ、これはこれ、では?

河瀨:そのときのコーチも「みんなの思いを背負って、ちゃんと行かなきゃダメだ」と。それで、沖縄で開催された「海邦国体」に参加してベスト16まで行って、負けて現役を引退しました。

金丸:やりきった、という感じだったんですか?

河瀨:そうですね。高校3年生の10月まで、ひたすらバスケをやってましたが、「このあと続けて選手になれたとしても、30歳くらいで引退したあと何をするんだろう?」って。それに、そのときにはおばあちゃんとふたり暮らしになっていたので、高校卒業後は働くことも考えてました。

金丸:ということは、おじいちゃんは。

河瀨:私が中学2年生のときに亡くなりました。

金丸:それはショックでしたね。

河瀨:その後、専業主婦だったおばあちゃんが、ボタン1個つけて何銭みたいな内職を始めて。

金丸:円じゃなくて、銭ですか。

河瀨:それを私も手伝って、ひと月7万円とか。それでも足りないから、高校には奨学金を借りて通ってましたね。

金丸:何銭を積み重ねての7万円って、すごいですね。

河瀨:すごいですよね(笑)。そういう環境だったから負けず嫌いになったし、根性がついた。ただ、普通に会社勤めをする自分が全然想像できなくて。友達もみんな「直美には向いてない」って言ってました。

金丸:確かに、誰かに「これをやりなさい」って言われて従うタイプには見えません。

河瀨:むしろ、自分でゼロからイチを作るようなことが向いているかもって。それで、写真専門学校の映画学科に進むことにしたんです。

飛び込んだものづくりの世界で、映画に魅了される


金丸:これまでそういう話は出てきませんでしたが、映画をやってみようと思ったきっかけがあるんですか?

河瀨:映画というより、何かみんなでものを作る仕事がしたいなと。高校はバスケ三昧でしたが、うちの高校は文化祭がすごく盛んで、一般の人がたくさん遊びにきて、金銭をやりとりして商売できるような文化祭だったんですよ。そこで「みんなでものを作るのっていいな。テレビ局で番組を作るとか、編集者になって雑誌を作るとか、そういうの楽しそうだな」と思ったんです。

金丸:映画はもともとお好きだったんですか?

河瀨:それまでは、たのきんトリオとかアイドルの映画ぐらいしか観たことありませんでしたね。専門学校に入学して初めてゴダールとかトリュフォーとか、アメリカン・ニューシネマとか、70年代に出てきた新しいタイプの監督さんの映画を観て、すごい衝撃を受けました。「全然違う!映画ってエンターテインメントだけじゃないんだ!」って。そこから一気にハマっちゃいました。

金丸:たまたま選んだのが、河瀨さんの感性にぴったりだったんですね。

河瀨:そうなんですよ。ラッキーでした。専門学校なので機材は充実しているし、スタジオもある。やりたいと思えばいくらでもできる環境だったから、「同じ授業料を払ってるんだったら、やらなきゃ」と。

金丸:脚本はどうしたんですか?

河瀨:自分で用意しました。原作があっても、そこから脚本にするのは、いまでも全部自分でやっています。

金丸:演出は?

河瀨:私です。

金丸:みんなでものづくりというわりに、全部自分でやってらっしゃるんですね(笑)。

河瀨:貧乏しながらの自主制作がスタートですから。卒業したあとに撮った、父を探すドキュメンタリーでは、8ミリフィルムのカメラを自分で回したんですよ。

金丸:お父様を探す映画!?結果、見つかったんですか?

河瀨:見つかりました。神戸で普通に暮らしてました。父に会うのも初めてでしたが、そこには私の知らない家族があって、私の知らない弟がいて。そのとき私は23歳、弟は18歳でした。

金丸:半分血のつながった弟さんが。

河瀨:弟に「何で来たん?」って言われたんですよ。父はそのとき3回目の結婚で、私は最初の結婚のときの子ども、弟は2回目のときの子ども。タイミングも悪くて、弟はいまのお母さんと血がつながっていないというのを聞かされたばかりだったそうです。

金丸:弟さんも混乱するでしょうね。

河瀨:でも、いまはとっても仲良しです。

金丸:良かった(笑)。そのオチは重要ですよ。

河瀨:この間も神戸で映画を撮ったんですけど、エキストラとして出てくれないかって連絡したら、友達を呼んで来てくれて。

金丸:いいお話ですね。ところで、お父さん探しの映画の評判はどうだったんですか?

河瀨:すごい良かったです。『につつまれて』という作品ですが、初めて賞をいただきました。

金丸:だって、思いがこもってますからね。

河瀨:とはいえ、グランプリとかではなく、インディペンデントの映画祭で奨励賞を。ただ、それを観た映画評論家や批評家の人たちの中には、意地悪なことを言う人もいて。「こういう“人生に一度”しか使えない武器を出してしまったら、次にいったい何を撮るの?」みたいな。

金丸:そういうのは言わせておけばいいんですよ。その後の河瀨さんのご活躍を見たら、「何を撮るの?」なんて的外れもいいところです。

SPECIAL TALK

SPECIAL TALK

この連載の記事一覧